寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

菅原道真公を祀る広島天満宮

2011年02月03日 | 
広島天満宮の大鳥居をくぐり和魂漢才(菅家遺戒)の碑に目を通す。一言稲荷に手を合わせてから宮司さんに御祓いをしてもらい、天満宮の歴史について話を聞くことができた。社務所が作成した「天満宮由緒記」の一部を載せておく。

 昔毛利の殿様が広島城を建築する際、普請小屋を建て住みついたのが、沼田郡広瀬新開小屋村→小屋新町です。
 その頃、町内にたびたび火事が起こり、焼けた家は数えきれないほどでした。町の人たちはとてもこわがって、安心して暮らすことができないありさまでした。町役人綿屋七左衛門知孝(白井進家)氏と、田中嘉三次幸富氏は心配して、天満宮(天神様ともいう。御祭神菅原道真)のお力で、このわざわいをはらいのけようと天明8年(一七八八年)に天満町と町名をかえました。そして殿様にたのんで、天満宮を町の守り神として、文政5(一八二二年)正月24日、天満小附近におまつりしたのです。しかし地理的に悪く文政10年(一八二七年)7月24日、今の地へおまつりしました。昭和20年8月6日、原子爆弾によってお宮の建物は焼けてしまい、宮司は御神体を天満小の防空壕に、9月には天満南町に仮のお宮をつくっておまつりしました。その後昭和21年8月御本殿、昭和29年8月24日拝殿を再建いたしました。

天満宮由緒記

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広島天満宮前の道は旧山陽道だった

2011年02月03日 | 
私は西区天満町の広島天満宮に辿り着いた。玉垣の前に石柱が起っており「ここは旧山陽道⇔ 東、土橋・平和記念公園」と記されている。

江戸時代の人々が歩いた道をほんの一部とはいえ自分も通ったと思うと感慨深いものがある。広島城下の西端近くにあたる現在の福島町周辺が警護の意味合いからも重要なエリアであったことは認識しておくべきだろう。

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