寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

インターネット上における政治家のあだ名

2011年02月04日 | 暗黒の無政府時代
インターネット掲示板では政治家があだ名で登場することが多い。思いついた人から挙げていこう。「おから」=小沢氏曰く原理主義者。「蛤はまぐり」が最初誰を指すのか分からなかったが、路チュー、ヤジなどで紙面を賑わす御仁であった。名前の洽が蛤と似ていることからついたあだ名らしい。

「ゲル」=第一野党政調会長、某テレビ番組で軍事評論家役のジミー大西との対談で「カン・チョクト」発言を引き出した。汚い言葉を使わない「ガッキー(総裁)」は「風見鶏(はげたか)」から『もっと蛮カラで行け』と指導されたそうだが、品の良さは維持して欲しい。問題発言をしないことは立派な能力だと思う。

最後にブレまくり発言で窮地に立たされている艦長「イボ」。人気もない、品もない、やりたいこともないのに今の地位に固執する姿勢には国民も本当に呆れ返っている(笑)

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太田川水系天満川

2011年02月04日 | 
天満橋(歩道橋)を渡り中ほどから天満川を望む。原爆の熱線に焼かれ大火傷を負った多くの人達が水を求め川に入り力尽きた。

天満橋東詰からは中区堺町2丁目となる。原爆犠牲者を火葬した場所であるが、手を合わせても手向ける線香がほとんど無かったという事実は広島市民の間でもあまり知られてはいない。

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広島市西区の天満橋西詰交差点界隈

2011年02月04日 | 
広島天満宮を後にして旧山陽道を東に進み天満橋西詰に着いた。天満橋の歴史について少し触れておきたい。

 旧市から西の天満町へ渡る橋は天満橋であるが、この橋は小屋橋といわれたものが天明八年(一七八八年)の四月、町民から藩府に願い出て町名にちなんで天満橋と改名された。鉄橋となった天満橋のみどり色の橋桁の横には、白ペンキで「名橋天満橋昭和二十七年十二月請負者柴田惣兵衛」の文字があった。(編者注、この稿が中国新聞に掲載された昭和三十年春の見聞である)
「薄田太郎 / がんす夜話(たくみ出版 昭和四十八年)」

天満橋(爆心から約1km)は原爆投下によって燃えたが落橋は免れた。当時の状況が「広島原爆戦災誌第二巻」に記されている。

天満橋…木造(仮橋)被爆時、木部が燃えていたが、人々はどんどん渡って逃げた。十月水害で落橋

昭和20年9月枕崎台風で天満橋は大きなダメージを受けた。そして同年10月8日の大豪雨で天満川が増水し橋が流出してしまった。すぐ下流に架かっていた天満町鉄橋(路面電車用)も同様の運命だった。

昭和20年11月頃、現在の天満橋西詰交差点の辺りに闇市ができたのは交通遮断が大きな要因と考えられる。

天満橋西詰から対岸の堺町を望む

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