昭和20(1945)年8月8日、午後10時25分頃から始まった米軍の爆撃で城下町のほとんどは焼け野原となった。霞町の中央公園には福山市戦災死没者慰霊の像(母子三人像)が立っている。「福山空襲の記録(昭和50年)」に収録された市民の回想を読むと当日は非常に寝苦しい夜であったことがわかる。
私は大正生まれの祖母から何度か空襲の体験を聞いたことがある。彼女は子供を連れて田んぼに隠れていたが、避難中の男性から「奥さん、そこに居ったら危ないで」と言われすぐに移動した。それからまもなくして最初の避難場所に爆弾が落ちたそうである。彼女達は結局北東へ逃げて川に浸かって朝を迎えた。
祖母が「城が焼け落ちる様は非常にきれいじゃった」と呟いたのを私は今でもはっきりと覚えている。城の倒壊を笑いながら眺めていたという話には驚いたが、九死に一生を得た人間の精神状態を知る上で非常に重要な証言だと思う。
現在中央公園となっている場所にはかつて福山藩の藩校があった。これが後の旧制中学校に発展してゆき、井伏鱒二氏もここで中等教育を受けている。
私は大正生まれの祖母から何度か空襲の体験を聞いたことがある。彼女は子供を連れて田んぼに隠れていたが、避難中の男性から「奥さん、そこに居ったら危ないで」と言われすぐに移動した。それからまもなくして最初の避難場所に爆弾が落ちたそうである。彼女達は結局北東へ逃げて川に浸かって朝を迎えた。
祖母が「城が焼け落ちる様は非常にきれいじゃった」と呟いたのを私は今でもはっきりと覚えている。城の倒壊を笑いながら眺めていたという話には驚いたが、九死に一生を得た人間の精神状態を知る上で非常に重要な証言だと思う。
現在中央公園となっている場所にはかつて福山藩の藩校があった。これが後の旧制中学校に発展してゆき、井伏鱒二氏もここで中等教育を受けている。