寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

福山空襲から66年

2011年08月08日 | 郷土史
昭和20(1945)年8月8日、午後10時25分頃から始まった米軍の爆撃で城下町のほとんどは焼け野原となった。霞町の中央公園には福山市戦災死没者慰霊の像(母子三人像)が立っている。「福山空襲の記録(昭和50年)」に収録された市民の回想を読むと当日は非常に寝苦しい夜であったことがわかる。

私は大正生まれの祖母から何度か空襲の体験を聞いたことがある。彼女は子供を連れて田んぼに隠れていたが、避難中の男性から「奥さん、そこに居ったら危ないで」と言われすぐに移動した。それからまもなくして最初の避難場所に爆弾が落ちたそうである。彼女達は結局北東へ逃げて川に浸かって朝を迎えた。

祖母が「城が焼け落ちる様は非常にきれいじゃった」と呟いたのを私は今でもはっきりと覚えている。城の倒壊を笑いながら眺めていたという話には驚いたが、九死に一生を得た人間の精神状態を知る上で非常に重要な証言だと思う。

旧制中学(誠之館)

現在中央公園となっている場所にはかつて福山藩の藩校があった。これが後の旧制中学校に発展してゆき、井伏鱒二氏もここで中等教育を受けている。

福山藩「藩校 誠之館」跡

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平成23年8月6日広島にて(その3)

2011年08月08日 | 
紙屋町西電停前に到着。中郵便局の斜向かいに建つデオデオ本店(「謹んで御霊のご冥福をお祈り申しあげます」という幕が出ていた)。屋上ビアガーデン予約で満席の立て札を出した関係者が煙草をプカプカ吸っていた。

デオデオの外壁に鈴木三重吉(夏目漱石門下)生誕の地というプレートが埋め込まれていることを広島県人はあまり知らない。戦前、この辺りは猿楽町と呼ばれていた。三重吉は有名な児童雑誌を創刊した人だが、子どもはあまり好きでなかったと回想していたのは確か漱石の娘だった(笑)

鈴木三重吉生誕の地

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平成23年8月6日広島にて(その2)

2011年08月08日 | 
8月6日はマツダスタジアムで巨人戦(ナイター)が行われるため愛友市場内の店の一部はおつまみを販売していた。

ハモの天ぷら

鮮魚店は「ハモの天ぷら」を、また精肉店は「せんじがら」をパック詰めにして通行人に声をかけていた。私は試食をやんわりと断り市場を後にした。

せんじがら

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