寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

岡山市中区古京町2丁目1・第六高等学校趾と刻まれた石柱

2015年01月24日 | 
相生橋のたもとから東側は緩やかな下りである。旧山陽道を横切り(信号機付き交差点の北側に手打ちうどんの玉泉が見える)国道250号の古京(三叉路)交差点へ向かう。

古京の交差点

内田百(本名:栄造)の生家・造り酒屋は現古京郵便局(古京町1丁目3‐8)の隣にあった。三叉路から歩道橋の横を通り北東へ約40m進むと向こう側の道端に「第六高等学校趾」と刻まれた石柱が建っている。

石柱

石柱裏


 第六高等学校が岡山市に出来たのは、明治三十二年か三年であったと思う。岡山は私の郷里であって、その頃私は高等小学校の一年生か二年生であった。当時の尋常小学校は四年制であったから、高等小学校の一二年と云うのは、今の尋常五六年に当たる事になる。
 子供の時の事なのでぼんやりした記憶しか残っていないが、前前から大変な騒ぎであった様に思われる。岡山市に上水道が敷かれたのも、近県の競争都市を押し退けて、岡山市が高等学校所在地となる為の必要な条件であったからである。
 今では何と云っているか知らないが、その当時から私が入学した後でも、岡山では六高の事を「第六」と呼んだので、おまけにそれが岡山地方の母音の流れる云い方で崩れるから、東京その他の地方から来た新入生はみんな初めは解らないので弱ったらしい。その「第六」が岡山じゅうにひろがり、どこでも「第六」の噂ばかりになった。
 私の家は古京町と云う町に在って、その町裏の田圃に六高が出来上がる事になったのである。大きな凧を揚げたり、七夕様の硯の露を取りに行ったり、田鮒を掬ったりした子供の時の遊び場所を潰して、そこに私の母校となった六高が建っている。

『六高以前 / 内田百』 

石柱が「六高道」の起点でかつては松並木を通り抜けた先が(旧制)六高の正門であった。下の絵葉書は六高道の終点辺りから六高の正門と本館を写したものである。

六高正門と本館

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