魚のたたき(炙り)で最も有名なのは鰹だろう。藁に火をつけて燃やし鰹の皮目、身を炙る古典的なやり方は多くの人がご存知だと思う。
たたきという調理法の優れた点は3つある。まず第一に炙ることによって外はやや硬く、中はやわらかいままという食感の違いが生じる。第二に独特の香燻が食欲をそそる。第三に(銀)皮が抵抗なく食べられるようになる。更に言うと食中毒(秋でも気は抜けない)防止効果が期待できる。
鮮度抜群の鰹で作る土佐の塩たたきが滅法旨いのは以上の理由があるからだ。柑橘の絞り汁をかけることによって更に味がまとまるのを計算しているのには恐れ入る。冒頭の画像は鰆のたたきだが、これもなかなか美味である。鰆は晩秋から冬にかけてたっぷりと脂がのり身も締まってくる。私は瀬戸内海で水揚げされる貴重な寒鰆(の造り)を鮪以上に評価しているのだ。
たたきという調理法の優れた点は3つある。まず第一に炙ることによって外はやや硬く、中はやわらかいままという食感の違いが生じる。第二に独特の香燻が食欲をそそる。第三に(銀)皮が抵抗なく食べられるようになる。更に言うと食中毒(秋でも気は抜けない)防止効果が期待できる。
鮮度抜群の鰹で作る土佐の塩たたきが滅法旨いのは以上の理由があるからだ。柑橘の絞り汁をかけることによって更に味がまとまるのを計算しているのには恐れ入る。冒頭の画像は鰆のたたきだが、これもなかなか美味である。鰆は晩秋から冬にかけてたっぷりと脂がのり身も締まってくる。私は瀬戸内海で水揚げされる貴重な寒鰆(の造り)を鮪以上に評価しているのだ。
竹原港待合所を過ぎると美しい穏やかな海が広がっていた。防波堤そばに車を停めて釣りをする人、弁当を食べる人、昼寝する人など、静かな港周辺では様々な動きがある。
小舟をしばらく眺めた後、海岸に沿って更に南へ足を進めた。鉄工所と肥料店の前からは対岸の小高い山がはっきりと見えた。水軍の砦としての的場城があった付近だ。JR竹原駅から歩き出して20分が経過していた。
竹原塩田
竹原は往昔、明神、的場の二山を入口とし海潮深く灣入して一大入江をなし、蘆荻繁茂、所謂竹原の庄の一部として、古稱葭の浦の一寒村にすぎなかつた、
徳川時代淺野藩は浦邊奉行を置き、正保年間鈴木重仍任に在るや自然作用に依る干潟の生成を利用して大新開を築き、遂に今日の盛大な竹原塩の起原を見るに至つた、
『広島県史蹟名勝写真帖<目で見る風土記>(歴史図書社 昭和五十二年八月三十日発行)』
小舟をしばらく眺めた後、海岸に沿って更に南へ足を進めた。鉄工所と肥料店の前からは対岸の小高い山がはっきりと見えた。水軍の砦としての的場城があった付近だ。JR竹原駅から歩き出して20分が経過していた。
竹原塩田
竹原は往昔、明神、的場の二山を入口とし海潮深く灣入して一大入江をなし、蘆荻繁茂、所謂竹原の庄の一部として、古稱葭の浦の一寒村にすぎなかつた、
徳川時代淺野藩は浦邊奉行を置き、正保年間鈴木重仍任に在るや自然作用に依る干潟の生成を利用して大新開を築き、遂に今日の盛大な竹原塩の起原を見るに至つた、
『広島県史蹟名勝写真帖<目で見る風土記>(歴史図書社 昭和五十二年八月三十日発行)』
JR呉線・汐入川踏切を越えて右折し三井金属鉱業の脇道に入る。塩町という名は塩浜(塩田)跡地にちなむ。現在の竹原駅(※)周辺および南側には忠海駅のそれと同じく塩田が広がっていたのである。
竹原塩田の沿革(廃田)
竹原に塩田が開かれたのは、いまから凡そ三〇〇年まえの応安三年(一六五〇)である。はじめは塩浜の軒数も三一軒であつたが、四、五年の間に八七軒に増加し、畝数も六〇町歩におよぶ大規模なものとなり、江戸時代を通じて播州赤穂とともに瀬戸内海屈指の塩田として知られた。やがて三都(大阪・京都・江戸)をはじめとする都市生活の発展は塩の需要を増大し、竹原塩は全国的に供給され、その良質を誇つた。延宝八年(一六八〇)に赤穂塩の桝目が竹原枡に統一されたことは、当時全国市場における竹原塩の占める地位をうかがうことができる。
『芸南風土記 / 芸南新聞社(昭和三十六年五月五日発行)』
※著者注…昭和7年(1932)7月10日、三呉線の停車駅として開業
竹原塩田の沿革(廃田)
竹原に塩田が開かれたのは、いまから凡そ三〇〇年まえの応安三年(一六五〇)である。はじめは塩浜の軒数も三一軒であつたが、四、五年の間に八七軒に増加し、畝数も六〇町歩におよぶ大規模なものとなり、江戸時代を通じて播州赤穂とともに瀬戸内海屈指の塩田として知られた。やがて三都(大阪・京都・江戸)をはじめとする都市生活の発展は塩の需要を増大し、竹原塩は全国的に供給され、その良質を誇つた。延宝八年(一六八〇)に赤穂塩の桝目が竹原枡に統一されたことは、当時全国市場における竹原塩の占める地位をうかがうことができる。
『芸南風土記 / 芸南新聞社(昭和三十六年五月五日発行)』
※著者注…昭和7年(1932)7月10日、三呉線の停車駅として開業
私はJR呉線の竹原駅で下車した。忠海の町との違いを見ておきたいと思ったからだ。安芸の小京都と形容される竹原は江戸時代賀茂郡下市村と呼ばれていた。『芸南風土記 / 芸南新聞社(昭和三十六年五月五日発行)』は文教の町「竹原」の生いたちをこう解説している。
竹原はもと下市、下野、東野、西野、新庄の、五カ村の総名で、徳川時代の割庄屋支配地域としての竹原組は、これに西野の分村である仁賀および上三永、下三永の両村を含んでいた。下市が竹原町の名を専ら使うようになつたのは、塩浜成立以来のようである。下市村が下野村より分離したのは天文九年(一五四〇)のことと「柏木累系」に見えている。
昭和33年(1958)11月3日賀茂郡竹原町と豊田郡忠海町が合併し竹原市が誕生し、役所は旧竹原町の方に置かれて現在に至る。
竹原はもと下市、下野、東野、西野、新庄の、五カ村の総名で、徳川時代の割庄屋支配地域としての竹原組は、これに西野の分村である仁賀および上三永、下三永の両村を含んでいた。下市が竹原町の名を専ら使うようになつたのは、塩浜成立以来のようである。下市村が下野村より分離したのは天文九年(一五四〇)のことと「柏木累系」に見えている。
昭和33年(1958)11月3日賀茂郡竹原町と豊田郡忠海町が合併し竹原市が誕生し、役所は旧竹原町の方に置かれて現在に至る。