澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

神谷不二氏が死去

2009年02月21日 12時46分33秒 | Weblog

神谷不二氏が亡くなった。

 朝鮮半島問題や日米関係の研究などで知られる国際政治学者で慶応大名誉教授の神谷不二(かみや・ふじ)氏が20日午前2時39分、急性心不全のため横浜市の病院で死去した。82歳だった。名古屋市出身。住所は公表されていない。告別式は24日午後1時から横浜市青葉区美しが丘2の21の4の公益社会館たまプラーザで。喪主は妻笑子(えみこ)さん。 慶応大教授、米コロンビア大客員教授、東洋英和女学院大大学院教授などを歴任。主な著書に「戦後史の中の日米関係」「現代国際政治の視角」など。1966年に出版された「朝鮮戦争-米中対決の原形」では、史料を基に同戦争を米国の政策遂行の側面から冷静に分析した。 日本学術会議会員を務めたほか、日本、北米、欧州から各界の民間指導者が集まる政策協議グループ「日米欧委員会」(現三極委員会)にも長年参加。保守派の論客としても活躍した。 


20年前、ソ連社会主義体制が崩壊するまでは、国際政治学者の世界は「現実派」と「進歩派」に二分されていたように思う。前者の代表は、高坂正堯(当時・京都大学)と神谷不二で、後者の代表格が坂本義和(東京大学)だったろう。

神谷不二氏の最大の業績は、朝鮮戦争を客観的に分析したことである。朝鮮戦争を巡っては、北朝鮮に肩入れする数多の類書が発刊されたが、年月を経て今なお読まれているのは皆無である。それはそうだろう、アメリカの謀略によって戦端が開かれたとする本が大多数だったのだから…。一方、当時「アメリカの資料を使った」と「左翼陣営」から批判された神谷氏の著作は、ソ連崩壊に伴う内部文書の公開で、その内容の正しさが証明された。
当時マスコミでは、北朝鮮を「朝鮮民主主義人民共和国」と呼ぶことが習わしとなっていて、韓国に対しては極めて冷淡だった。北は社会主義だから「善」、南は資本主義だから「悪」という、今思えば噴飯ものの議論がまかり通っていたのだ。

神谷不二氏のスタンスは終始一貫していて、多くの後継者を育てた。宮崎緑は特に有名だ。
「平和研究」で有名だった武者小路公秀氏(現・大阪経済法科大学教授)は、今や北朝鮮べったりの大学で、反米を吹聴している。彼の人生に何があったかは知るよしもないが、かつての氏を知るものにとっては、その変貌ぶりに驚くばかりだ。

人生それぞれだが、晩節は汚したくないものだ…。

 


 

 

朝鮮戦争―米中対決の原形 (中公文庫)
神谷 不二
中央公論社

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台北の孝女(泣き女)

2009年02月21日 02時23分35秒 | 台湾
NHK・BSで「孝女の涙」を見る。(”アジアン・スマイル”2月15日放送)
今や珍しくなってしまった”泣き女”を職業とする女性の物語だ。
台湾、香港などの華人社会では、葬儀の際に孝女(ハオルー)という”泣き女”を雇い、悲しみを際だたせるという慣習があるが、近代化に伴い次第に見られなくなってきた。

番組で紹介された”孝女”は、劉君玲という27歳の女性。両親を早く亡くしたため、11歳から葬儀場で働いていたというが、悲壮な感じは見られない。同業の恋人もいて、現在の生活は充実している。むしろ”孝女”をビジネスとして発展させようとするたくましさが印象的だった。

実は劉さんは、ディスカバリー・チャンネルで放送された「Discover woman 台北扁」でも紹介されている。こちらは23歳の頃のインタビューなので、2005年制作の番組(アメリカ制作)である。この番組では、国民党軍の元兵士が居住する地域を訪れて、台北はすべての人が仲良く暮らす「楽園」だなどと言わせているので、台湾の歴史など全く分かっていないのだと思った。

ふたつの番組で同じ女性が紹介されるということは、孝女(泣き女)も今や文化遺産になりつつあるということだろうか。