澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

1945年3月、200万ベトナム人餓死事件とは?

2011年06月09日 10時00分04秒 | 歴史

 昨日、大学の授業の中で、気になることを聴いた。第二次世界大戦下、日本は、仏政府の合意のもと、仏領インドシナ(ベトナム)に進駐した。1945年3月、日本軍が米作を制限し、ジュート栽培を強要したことによって、二百万人ものベトナム人が餓死に追いやられたというのだ。

 この話は、昔、本か何かで読み知っていたので、特に驚かなかった。「日本軍はベトナムでも悪いことをしたのだ」という文脈で、これを理解していた。
 だが、先生は「当時のベトナムの人口は、二千万人ほど。二百万もの人が死んだとは、考えにくい」と言う。「でも、この数字は絶対に変えられない。何故だと思う?」と学生たちに質問。
 その答えは、この数字が、ホー・チミンによって行われた「ベトナム独立宣言」(下掲)に書かれているからだという。

 現在、日本とベトナムの関係は、政治的、経済的に極めて良好だが、いつの日かこの話が蒸し返されるときが来るかも知れない。だから、歴史の検証が必要なのだが、建国の父(ホー・チミン)の言葉は絶対で、この金科玉条に触れることは、ベトナム側としてもタブーでもあるのだ。
 
 日中関係においては、中国側が常に「歴史認識カード」を持っていて、彼らの都合でそれを持ち出すという印象が強い。「南京事件」の被害者は40万人だという中国の主張が、いつのまにか日本人の間にも広まってしまった。日越関係が同じようなことにならぬよう願うばかりだが、先生が最後に力強い言葉を述べられた。
 「いいですか、歴史は史実の積み重ねではなく、現在の視点から書かれた”物語”なのですよ」と。
 
 これには、私も全く同感。このくらいのドライな認識がなければ、先生のような国際的な活動は勤まらない(あるいは、やってられない)のだろう。
 かつての左翼歴史学者は、「日本帝国主義」の「罪状」を示すため、この「二百万ベトナム人餓死事件」をわざわざ採り上げた。「日本」の断罪こそが彼らの目的であったから、それもまた「現在の視点から書かれた”物語”」でもあったのだ。私自身、すっかりこの”刷り込み”の被害に遭っていたのだと分かった。


【ベトナム独立宣言】(一部) 1945年 by 胡志明(ホー・チミン)

「…1940年の秋に、ファシスト日本(日本のファシズム)が連合国との戦いにおいて新しい基地を確立する為にインドシナ半島の領域を荒らした時、フランスの帝国主義者は彼らに膝を曲げてひざまずいて、我々の国を彼らに手渡した。このように、その日付から、我々の身内は、フランス人と日本人の二重の軛に服従した。彼らの苦しみと惨めさは増加した。結果は、昨年の終わりから今年の初めまで、クアンチ省からベトナム北部に至るまで、我々の仲間の市民のうちの200万人が飢餓で死んだ。 3月9日に、フランス軍隊は、日本人によって武装解除された。フランスの植民地主義者は逃げたか、降伏した。それを示すだけでなく彼らが5年の間に、もし彼らが日本人に我々の国を二回売っていなければ、我々を「保護する」事が出来なかった。 3月9日の前に、幾度もベトミンは、日本人を相手取ってフランス人にベトミンと同盟するよう訴えた。この提案に同意する代わりに、フランスの植民地主義者は、逃げる前に彼らが拘留される沢山の我々の政治犯を大虐殺したように、ベトミンメンバーに対してイエンバイ省カオバン省にて彼らのテロ活動を強めた。 こういう事にもかかわらず、我々の仲間の市民は、常にフランス人の方へ寛容で人道にかなった態度を常に明らかにして来た。1945年3月の日本の反乱の後さえ、ベトミンは、多くのフランス人が境界線を横切るのを援助して、彼らの何人かを日本の刑務所から救い出して、フランスの命と資産を保護した。 1940年の秋から、我々の国は実際にフランスの植民地であるのをやめて、日本の所有になった。日本人が連合国に降伏したあと、我々の全部の仲間は我々の国家主権を回復して、ベトナム民主共和国を起こす為に蜂起した。 真実は、我々はフランスからではなく、日本から我々の独立をもぎ取った。 フランス人は逃亡し、日本人は降伏し、皇帝バオ・ダイは退位した。我々の仲間はおよそ一世紀に渡って縛り付けて来た鎖を破り、祖国の独立を勝ち取った。我々の仲間は同時に、何世紀もの間最高位に君臨した君主体制も倒した。その場所に現在の民主共和国が建国された。…」 (Wikipediaより引用)