澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

ハワイに行ったら真珠湾を見よう! 真珠湾攻撃70周年

2011年12月08日 19時43分47秒 | 歴史

 今日は真珠湾攻撃70周年ということで、マスメディアは各種のニュースや関連番組を流している。だが、大半は「悲惨な戦争を繰り返さない決意」とやらを語るだけで、1941年の今日何故、連合艦隊がハワイを奇襲したのかという原因について触れることはない。
 歴史とは本来「現在の都合で書き換えられる」ものだと認識しているので、いわゆる自虐史観に呪縛された現代日本の閉塞状況は、速やかに改めるべきだと思っている。

 今年の5月、ハワイ旅行の際、私は真珠湾と中華街(チャイナ・タウン)を訪れた。ワイキキ・ビーチからバスを乗り継ぎ、1時間以上かかって真珠湾に着いたが、周囲の観光客に日本人とおぼしき人は一人もいなかった。アジア人らしき少数の人達は、多分、中国人と韓国人だっただろう。
 ハワイには多くの日本人が訪れるのに、何故、真珠湾には行かないのか?そこには、歴史に無頓着な日本人特有の甘さがあるように思われる。真珠湾には何が展示され、どういう説明が為されているのか? そして、それらは日本人が容認できる内容なのかをぜひこの目で確かめようではないか、と思う。

 真珠湾で撮影した説明プレート等の写真を掲げてみよう。その中に「真珠湾攻撃以前の平和なハワイ」というプレートがあるが、何のことはない、米国がハワイ王国を滅亡に導き、ハワイを属領にした歴史はきれいに消し去って、日本が攻撃する以前のハワイはかくも平和だったとうそぶいているに過ぎない。さすがこう主張できるのは、「戦勝国」の特権だろう。

 日本人はめでたくも「平和への誓い」「悲惨な戦争を反省」などと繰り返しているが、米国人の主流は、今なお「JAPの真珠湾攻撃を忘れるな」なのだ。そのことは、写真を見ただけでよくわかる。ともあれ、ハワイ旅行の際は、真珠湾に足を伸ばそうではないか。




 (「嵐の前に…」)


(日本軍の第一波、第二波攻撃

 


(沈没した「アリゾナ」をそのまま展示する「アリゾナ記念館」)

時代の風:「12・8」から70年=東京大教授・加藤陽子

 ◇削除された開戦の意図

 今年は、日本軍のマレー半島上陸と真珠湾空襲によって太平洋戦争が開始されてから70年にあたる。12月8日がまた巡ってくる。丸70年といえば、ひと一人の人生の時間に相当するだろう。もっとも、世界に冠たる長寿国の日本では、昨年段階で女性の平均寿命が86・39歳、男性が79・64歳に達してはいるが。

 戦場を体験した世代で最も若い層であるはずの敗戦時に16歳の少年飛行兵だった人々を考えてみても、彼らでさえ、今や優に80歳を超える現実がある。やがて、戦場を知る人々が世代ごといなくなる時代もやってこよう。戦争の裏と表をつぶさに見た人々が、折々の生活のなかで、家族に伝えてきた多様な体験。彼ら彼女らによって伝えられた「戦争の話」こそが、日本人の戦争観を大きく規定してきたと思われる。

 人々の戦争観を見る際に参照されることの多い、2005年に読売新聞が行った調査は、そのような意味で興味深い結果を出した。1941年に開始されたアメリカと日本の戦争を侵略戦争だとする人は34・2%。それに対し、37年からの中国との戦争を、日本の侵略だったとする人は、そう思う、ややそう思う、を合わせると68・1%に達する。注目すべきは、日中戦争を侵略戦争ではなかったとする積極的な否定論が、1割程度にとどまったことだろう。

 当時も激しかった歴史認識論争の中で、調査結果を読んだが、第一印象として、先の大戦に対する日本人の戦争観は思いのほか穏当なものだと感じたことを思い出す。日本社会において、戦場や戦争を体験した人々の存在とその語りが、調査で見られた、比較的穏当な戦争観をもたらしてきたのではないか。そうだとすれば、戦場や戦争を知る世代が退場してゆく今後が正念場となる。

 先に私は、アメリカとの戦争を侵略戦争と考える人が3割強、中国との戦争を侵略だと考える人が7割弱と出た調査結果を「穏当」と書いた。こう書いたのは、新聞調査に表れた国民の戦争観が、日本政府によって公式に表明されてきた見解に近い内容となっていたからである。

 95年、村山富市内閣は「戦後50周年の終戦記念日にあたって」とする首相談話を閣議決定の上で発表した。同談話は「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ」として国民と戦争の関係を述べ、対外的には「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」とまとめていた。

 10年後の05年、小泉純一郎内閣も終戦記念日にあたっての首相談話を発表する。国民と戦争の関係を述べた前段「先の大戦では、三百万余の同胞が、祖国を思い、家族を案じつつ戦場に散り、戦禍に倒れ、あるいは、戦後遠い異郷の地に亡くなられています」のトーンは、村山談話と大きく異なっていた。だが、対外的側面について述べた後段「我が国は、かつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」との評価は、村山談話を踏襲したとわかる。

 小泉内閣以降の歴代内閣もまた、アジア諸国の人々に対する植民地支配と侵略についての見解につき、基本的には二つの談話を踏襲してきた。そうであれば次に浮かぶ問いは、アメリカとの戦争、太平洋戦争についてはどうなのか、ということになろう。

 開戦から70年もたったのだから、新たな発見などそうそうあるまいと思われるかもしれない。だが、そうした予想はうれしいことに裏切られる。一例として、真珠湾攻撃30分前、アメリカに手交されるはずだった「最後通牒(つうちょう)」1件を挙げておく。ワシントンの日本大使館の職務怠慢によって、宣戦布告文の手交が攻撃開始50分後となり、奇襲攻撃の汚名を負ったとの解釈と経緯はご存じだろう。

 この通説的解釈に、新史料を提示して反論を加えたものに井口武夫著「開戦神話」(中公文庫)がある。東郷茂徳外相から野村吉三郎大使宛ての最終訓令は、実のところ、日米交渉打ち切り通告文以上のものとして読めないよう作文されていたのではないか。交渉打ち切り通告だけでは宣戦布告の意思表示とならないのはハーグ条約からも明らかなのに、なぜ外務省は打ち切り通告文を送ったのか。これが、元外交官であり外交史を専門とする井口氏の見立てと問いである。

 事実、41年12月3日、当時外務省アメリカ局長であった山本熊一は、明確な開戦通告の文言を含む最後通牒草案を準備していた。だが翌4日、大本営政府連絡会議の席上、開戦決定をアメリカに察知されるのを忌避する軍部の反対によって、明示的に開戦意図を述べた末尾の一文が削除されることとなった。

 緒戦の軍事作戦の成功のみを考える軍部に、外務省本省がこの時点で屈していたことの意味は大きい。災いの種は東京でまかれていたともいいうる。先の調査で見た国民の戦争観でも、アメリカとの戦争に対する評価はいまだ定まっていないようだ。歴史学の出番は、むしろこれからが本番なのかもしれない。=毎週日曜日に掲載

毎日新聞 2011年12月4日 東京朝刊