澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

あるスペイン人カトリック神父と中国布教の歴史

2015年07月10日 07時52分50秒 | 歴史

 何年か前、佐藤公彦教授(現・東京外国語大学名誉教授 中国近代史)の講義「近代中国とキリスト教」を聴講した。中国におけるカトリック神父やプロテスタント牧師のキリスト教布教の過程をつぶさに知ることができたのは、私にとって大いなる収穫だった。

 その佐藤先生の最新刊である「中国の反外国主義とナショナリズム~アヘン戦争から朝鮮戦争まで~」(集広舎 2015年4月)は、中華人民共和国成立後の宗教政策史に触れている。朝鮮戦争を契機に、中共(=中国共産党)の宗教政策は「統制抑圧」に転じる。

「…朝鮮戦争が始まると、反米の嵐の中、外国人宣教師たちは排斥され敵視されて、'51年初めにプロテスタントの西洋人宣教師三千余名が追放同然に中国を離れた。なお、四、五百名が残っていたが、それも'52年末までに、大部分が中国を離れていった。かれらは台湾に逃れたり、日本に渡ったりした。1970年代まで、こうした中国伝道の経験を持った新旧教の外国人宣教師たちのかなりの数が、日本にいた。かれらはその後、次第にアメリカなどに移って行ったが、日本の中国研究者はかれらから聞き取りをして記録に残したりしなかった。1980年代になって私が近代中国の反キリスト教を研究し始めた時に、当事者の彼らがかって日本にいたことを知って、10年早かったら聞き取りができたかも知れないと、残念に思ったことを思い出す。」(同書 p.338-9) 

 私は講義の中でも同様の話を聴いた。戦後の中国研究は概ね「新中国」に共感し、近代日本を批判するのが潮流であったから、「新中国」のもうひとつの側面に触れるのは「タブー」とされるか、「右翼」とみなされて学界の主流からは疎外された。たとえば、「満洲」はその言葉自体がタブー視され、ある種の踏絵の道具となった。その結果、清朝は満洲族の王朝であり、モンゴル、チベットとはチベット仏教を通じて、同盟関係にあったこと、漢族は被支配者であったことなど、歴史認識のイロハさえうやむやにされた。これは、中共にとってまさに思う壺だった。
 中共は大陸を制圧すると、すかさずチベットに侵攻して、少数民族居住領域に対する支配を強化した。同時に三反五反運動、大躍進政策、無産階級文化大革命などを通して、
扇動(大衆運動)による絶え間ない民衆教化を続けた。それらは、「ひとつの中国」「偉大な中華民族」を「人民」という名の愚民に叩き込むためだった。

 「1980年代になって私が近代中国の反キリスト教を研究し始めた時に、当事者の彼らがかって日本にいたことを知って、10年早かったら聞き取りができたかも知れないと、残念に思ったことを思い出す」という佐藤先生の述懐を読んで、私はあるスペイン人神父を思い出した。それはホルヘ・エステバン・リドニ(Jorge Esteban Lidoni)という方で、1970年代前半の当時、70歳くらいのカトリック神父(上智大学教授・宗教音楽学)だった。私は、この先生から「中国語」を教わった。選択外国語(第三外国語)だったので、受講生は私を含めて3名だけ。そのため、リドニ先生は、身の上話も結構話してくださった。ある日、「私は26年間、イエズス会士として中国に暮し、毛沢東とは二度あったことがある」と話された。当時の学生の間では、毛沢東は輝いていたが、不勉強な私はただただ驚くだけで、先生がどこで、なぜ毛沢東に会ったのかなど、詳しいことを訊くだけの知識はなかった。もし、佐藤先生がその場にいたとしたら、どんな会話になっていたのだろうか?

 歴史の一断面を垣間見た思いと、歴史というものは、時代に合わせてつくりかえられていく、そうつくづく実感した。


佐藤公彦著「中国の反外国主義とナショナリズム~アヘン戦争から朝鮮戦争まで」
(集広舎 2015年) 


 

 

 

 



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