先日、中国新彊ウイグル自治区・ウルムチ市で起きた爆発事件は、中国共産党(中共)政権に衝撃を与えている。習近平はこの事件を「テロ騒乱事件」と見なし、ウイグル人による反漢族運動の徹底弾圧を命じた。
そもそも中華人民共和国の「領土」は、清朝を打倒した中華民国の版図を引き継いだもの。満洲人の王朝である清朝は、チベット仏教を通じてモンゴル、チベットとは同盟関係にあった。満洲(現在の中国東北部)は彼らの祖地であったから、漢人が移住することを許していなかった。新たな領土を意味する新彊は清朝時代に版図に組み入れられたが、清朝の統治はそこに居住するウイグル人の伝統、文化を脅かすものではなかった。
本来、漢人の領域ではなかったチベット、モンゴル、ウイグルが「ひとつの中国」に組み入れられるようになったのは、辛亥革命によって清朝が打倒され、中華民国が樹立されてからだ。中華民国は、伝統的な華夷秩序に基づく少数民族の領域を近代国民国家の「領土」として読み替え、「中国はひとつ」「ひとつの中国」という虚構を打ち立てた。第二次大戦後の混乱期、ソ連の援助を得て「革命」に成功した中共は、この虚構を引き継ぎ、共産党一党独裁の過酷な暴政で少数民族を抑圧し続けている。
今から百年ほど前、内藤湖南は「中華民国承認について」(1912年)という時評を書いている。「支那論」所収の一文であるが、現在の中共の少数民族支配を見越したような分析の鋭さに驚かされる。
内藤湖南「支那論」
湖南は章炳麟の「中華民国解」という一文に着目して次のように論じる。
「…支那種族というものの発展の歴史から結論して、そうしてどこの地方までがこの中華民国に入るべきものであって、どういう人種は中華民国から除いても差し支えないものであるということを解いておるのである。」
「…章炳麟の議論は、漢の時の郡県であった所を境界として論究すると、蒙古や、回部すなわち新彊や、西蔵(チベット)地方というものは、これは漢の領土には入らなかったから、これを経営することは後回しにしても差し支えない。しかし朝鮮の土地は、これは漢の版図に入っておる。安南もやはり同様である。…これらの土地をも恢復することは、中華の民族の職分である。」
「西蔵や回部すなわち新彊、これは明の時にただ王を冊封したに過ぎなかったが、漢の時などはやはり都護(周辺民族を支配するための軍事機関)に附属しておったけれども、真の属国ではない。殊に今の新彊は、漢の時にあった三十六国とは違う。それから蒙古は昔から一度も服従したことはない。それでもしこれらの種族に対して、中華民国が支配することの前後を考えるということになれば、まだ西蔵の方は宗教が同じだから近い点もあるが、回部とか蒙古とかいうものは少しも支那民族と同じ点がないから、中華民国の領域から考えると、…西蔵、回部、蒙古、これは服従してくるなら来てもよし、服従せぬならせぬもよし、勝手に委すべきものである。こういうことを主張しておる。」
「中華民国というものを承認するということは、いくらかこの中華民国が理想であった時代の主張をも承認するという傾きになるのであるから、章炳麟の議論を知っておる国は必ずそのまま承認すべきはずはない。日本が既に現在朝鮮を支配しており、それから安南(ベトナム)はフランスが支配しており、ビルマはイギリスが支配しておる。そういうものに対して中華民国が必ずこれを恢復すべきであるというようなことは、今日の列強の均勢上甚だ不穏当な言論である。」
文中の「中華民国」を「中華人民共和国」に置き換えても、湖南の分析は、今なお通用する。戦後、1970年代に至るまで、多くの中国研究者が「1949年、中国は”新中国”に生まれ変わった」と主張し、その根拠として中共(中国共産党)当局お墨付きの資料を鵜呑みにしていた事実を思い返すと、戦後日本は内藤湖南に匹敵するような中国学者を誰ひとり生み出さなかったのだと痛感する。
そもそも中華人民共和国の「領土」は、清朝を打倒した中華民国の版図を引き継いだもの。満洲人の王朝である清朝は、チベット仏教を通じてモンゴル、チベットとは同盟関係にあった。満洲(現在の中国東北部)は彼らの祖地であったから、漢人が移住することを許していなかった。新たな領土を意味する新彊は清朝時代に版図に組み入れられたが、清朝の統治はそこに居住するウイグル人の伝統、文化を脅かすものではなかった。
本来、漢人の領域ではなかったチベット、モンゴル、ウイグルが「ひとつの中国」に組み入れられるようになったのは、辛亥革命によって清朝が打倒され、中華民国が樹立されてからだ。中華民国は、伝統的な華夷秩序に基づく少数民族の領域を近代国民国家の「領土」として読み替え、「中国はひとつ」「ひとつの中国」という虚構を打ち立てた。第二次大戦後の混乱期、ソ連の援助を得て「革命」に成功した中共は、この虚構を引き継ぎ、共産党一党独裁の過酷な暴政で少数民族を抑圧し続けている。
今から百年ほど前、内藤湖南は「中華民国承認について」(1912年)という時評を書いている。「支那論」所収の一文であるが、現在の中共の少数民族支配を見越したような分析の鋭さに驚かされる。
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湖南は章炳麟の「中華民国解」という一文に着目して次のように論じる。
「…支那種族というものの発展の歴史から結論して、そうしてどこの地方までがこの中華民国に入るべきものであって、どういう人種は中華民国から除いても差し支えないものであるということを解いておるのである。」
「…章炳麟の議論は、漢の時の郡県であった所を境界として論究すると、蒙古や、回部すなわち新彊や、西蔵(チベット)地方というものは、これは漢の領土には入らなかったから、これを経営することは後回しにしても差し支えない。しかし朝鮮の土地は、これは漢の版図に入っておる。安南もやはり同様である。…これらの土地をも恢復することは、中華の民族の職分である。」
「西蔵や回部すなわち新彊、これは明の時にただ王を冊封したに過ぎなかったが、漢の時などはやはり都護(周辺民族を支配するための軍事機関)に附属しておったけれども、真の属国ではない。殊に今の新彊は、漢の時にあった三十六国とは違う。それから蒙古は昔から一度も服従したことはない。それでもしこれらの種族に対して、中華民国が支配することの前後を考えるということになれば、まだ西蔵の方は宗教が同じだから近い点もあるが、回部とか蒙古とかいうものは少しも支那民族と同じ点がないから、中華民国の領域から考えると、…西蔵、回部、蒙古、これは服従してくるなら来てもよし、服従せぬならせぬもよし、勝手に委すべきものである。こういうことを主張しておる。」
「中華民国というものを承認するということは、いくらかこの中華民国が理想であった時代の主張をも承認するという傾きになるのであるから、章炳麟の議論を知っておる国は必ずそのまま承認すべきはずはない。日本が既に現在朝鮮を支配しており、それから安南(ベトナム)はフランスが支配しており、ビルマはイギリスが支配しておる。そういうものに対して中華民国が必ずこれを恢復すべきであるというようなことは、今日の列強の均勢上甚だ不穏当な言論である。」
文中の「中華民国」を「中華人民共和国」に置き換えても、湖南の分析は、今なお通用する。戦後、1970年代に至るまで、多くの中国研究者が「1949年、中国は”新中国”に生まれ変わった」と主張し、その根拠として中共(中国共産党)当局お墨付きの資料を鵜呑みにしていた事実を思い返すと、戦後日本は内藤湖南に匹敵するような中国学者を誰ひとり生み出さなかったのだと痛感する。
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