エッセイ  - 麗しの磐梯 -

「心豊かな日々」をテーマに、エッセイやスケッチを楽しみ、こころ穏やかに生活したい。

春を訪ねる 1  北帰行を前にしたハクチョウ

2009-03-10 | 旅行
 思い立って、昨日飯坂温泉に宿を取り、春を肌で感じる旅に出た。
 途中、猪苗代、川俣、花見山に寄った。

 午前10時すぎ、猪苗代の翁島の田に寄った。そろそろ北帰行の始まるハクチョウに別れを告げたかったからだ。
 約100羽ほどのコハクチョウが雪の消えつつある田でしばしの休息をしていた。ときどき羽ばたきをしたり、磐梯山を背に飛翔練習を繰り返していた。十数羽が猪苗代湖から飛んできて田に降りた。静寂に鳴き会いながら雄大に飛んでいた。すぐ上空を鳴き交いながら飛翔する姿は何と美しいことか。羽ばたきの音が聞こえた。
 ハクチョウたちと別れを惜しんだ。長旅に備えるハクチョウたちが愛おしくてならなかった。


オンマウス・スライドショー》 (【Sakuraの勉強室】を参考にしました。【http://www.geocities.jp/ja6ei/pasokon.html】




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<北帰行を前に




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日記@BlogRanking

人生はふれあいの旅

2009-03-07 | 旅行
【秋に鉢上げしたシクラメン】

 人生は一過性のふれあいの旅だ。最近そう思う。
 連綿と続く時の流れの中の、わずかな生を生きる。
 その中で、これまで多くの人々、大切な物や豊かな自然、感銘を受けた書籍や芸術・・・等々、数々のふれあいがあった。そして、それらからもらったこころの蓄積が、ちっぽけないのちを支えてくれた。
 一瞬間のふれあいもあれば、例えば家族との温もりある、いくらか長い時の共有もあった。いずれ、これまで我がこころに止まりたるものがありがたく思われてならない。
 人生ははかなく、短い。だから、ときどきのふれあいを大切にしたい。
出来得れば、これからの人生がこころ揺すらぶられるふれあいに出会う旅でありたい。
 しばらく、物言わぬ自然を見つめながら、静寂がの中で自分を見つめて過ごしていきたい。

日記@BlogRanking


 七ヶ宿ダム  - 湖底の故郷 -

2008-06-09 | 旅行
             【在りし日の七ヶ宿  太田邦三 画】

 もう10年以上も前、銀婚式の記念旅行で遠苅田温泉に泊まった。帰りに白石から国道113号で七ヶ宿町を通過し南陽、米沢を回って帰ったことがあった。その折りに七ヶ宿ダム湖畔の歴史館で、ダムに沈む村の様子を描いた絵を見た。その素晴らしい絵を忘れなかった。

 一昨日、家族で八木山動物園に遊んだあと、その絵をもう一度みたい思いで米沢まわりで帰宅することにした。
 前に寄ったところは、郷土資料館「七ヶ宿町水と歴史の館」とあった。別の場所に、当時はなかった立派な道の駅が出来ていた。そのためか資料館の広い駐車場は草が生え、あまり観光客は訪れていない様子だった。受付の方に、懐かしくて絵をもう一度見に来た旨話すと、少しならと、絵の写真を撮ることを許可してくれた。
 その絵は館の開館のため寄贈された絵で、三人の作家(太田邦三氏、太田厚氏、千葉節夫氏)が、湖底に沈んだ三集落の四季の風景を描いたものだった。絵をながめ、今はない生活を想像すると切ない思いが去来した。また、それぞれの寄贈に当たってのメッセージにこころ打たれた。
 以下は千葉厚氏のコメントである。
湖底に沈む七が宿を描き続けて
 『七が宿の人々が、数百年も受け継いできた祖先伝来の田畑、小川、森、家並み、そして四季折々の一木一草に到るまで永久に湖底に沈む集落。在りし日の面影。その美に魅せられ、後世の人々に思いを残したい一心で、私なりに追求し、描き続けた作品です。』 

 折しも館内では特別展【戊辰戦争140年in七が宿】が開催されていた。あわせて、あらためて七が宿町の歴史を学ぶことが出来た。

【太田厚 画】

【千葉節夫 画】

【大田邦三 画】

★ 東海林太郎の歌う「湖底の故郷」が思い出された。
     夕陽は赤し 身は悲し
     涙は熱く 頬濡らす
     さらば湖底の わが村よ
     幼き夢の 揺り籠よ
★ さらに4年前に旅した飛騨の御母衣ダムを思い出した。
以下はそのときのエッセイである。
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湖底に沈んだ村の桜に思う」  (2005.5)
 旅はいつもいくつもの感動をくれる。
 桜の時期に飛騨の旅を楽しんだ。飛騨高山から白川郷へ向かう途中、御母衣ダム湖畔の荘川桜に車を止めた。そこでつぼみを膨らませたこの桜の感動の物語を知った。
「進歩の名の下に、古き姿は失われていく。だが、人力で救える限りのものはなんとかして残していきたい。古きものは古きが故に尊い」と、ダムに沈んだ村に数百年生き抜いた老桜が移植され、ふるさとが二本の桜によみがえったのだ。
 先祖伝来の郷土、家や田畑、神社、学校等思い出のすべてがダムに沈んだ村、その村人の切なさは察するに余りあった。物言わず数百年間、時代を静かに見つめてきた桜を眺めると胸が熱くなった。そして、国のため、地域のための礎となった日本各地の湖底のふるさとを思った。さらに成田闘争が思い出され、国家のためと、秤にかけられない個人の権利、三里塚の農民のいい知れない辛い思いがよみがえった
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 [七ヶ宿ダム] (ネットから)
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七ヶ宿ダムは、昭和48年以来、およそ19年の歳月をかけ平成3年に完成しました。この完成により、流域の洪水調整を図るとともに、農地へのかんがい用水、水道水、工業用水の確保など、多目的ダムとして幅広い活躍をしています。
 一方、ダムが建設される事で、三つの集落(追見・原・渡瀬)の158戸が湖底に沈みました。住み慣れた家から移転を余儀なくされた人々の惜別の気持ちをバネに、水源の町として新たな未来を形にしようとしています。
七ヶ宿湖は、平成17年3月にダム湖百選に認定されました。
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南国のプール

2008-05-26 | 旅行


 昨日、楽しみにしていたハワイアンズへ行ってきた。
 2006年の話題を独占した映画『フラガール』は、日本アカデミー賞の主要5部門を獲得した。あまり興味がなかったので見なかったが、これは、昭和40年の炭鉱閉山から「常磐ハワイアンセンター」の誕生を支えた人々の物語だ。ネットでストーリー(*)を見たらいつか観てみたいと思った。最近、その舞台化が決定したらしい。

 日曜日でもありかなりの人出だった。3000台収容という駐車場もほぼ満杯状態だった。観光バスで東京からのツアーがとても人気があるそうだ。
 孫たちは初めての本格的なプールだった。子どもたちはお昼も要らないと水に興じた。特に、流れるプールが気に入って、浮き輪で浮かんでママや叔母ちゃん、バーちゃんと何十回も回った。



 シアター前のレストランで昼食、パイナップルを丸ごと1個ジューサーで搾った「パイナップルジュース」を頼んだ。お値段も良いので1個を回し飲みした。
しなやかで繊細なフラダンス、勇敢なサモアの火の踊りなど、ポリネシアの島々の民族舞踊が繰り広げられた。プールサイドには常夏の植物が植えられ、しばし南国の雰囲気に浸った。
 温泉プールにも入った。水着を着てはいる温泉は初めてだった。でも、裸で入った露天風呂が私には一番良かった。
 約4時間の滞在、孫たちの面倒はやはり疲れた。でも、孫たちは今日の体験で水にも慣れたようだ。この夏は猪苗代湖で湖水浴に連れて行きたいと思っている。



(*) 《 ストーリー 》 (ネットから)
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昭和40年代、福島いわき市の炭鉱町。
“求む、ハワイアンダンサー”のチラシを見せ、ここから抜け出す最初で最後のチャンスだと早苗は親友・紀美子を誘う。男たちは、数世代前から炭坑夫として、女たちも選炭婦として働いてきた。だが、時代は石炭から石油へとエネルギー革命が押し寄せ、閉山が相次いでいる。この危機を救うために炭鉱会社が構想したのが、レジャー施設「常磐ハワイアンセンター」だった。
 紀美子の母・千代も兄・洋二郎も炭鉱で働いている。父は落盤事故で亡くなった。母は“ハワイ”構想に大反対。それでも紀美子と早苗はダンサー説明会に出かけ、他の娘たちがフラダンスの映像を見て逃げ出してしまう中、残った子持ちの初子、大柄な小百合とフラダンスに挑むことになる。そんな中、娘たちにフラダンスを教えるために、ハワイアンセンターの吉本部長は平山まどか先生を招く。本場ハワイでフラダンスを習い、SKD(松竹歌劇団)で踊っていたダンサーだ。最初は田舎町を軽蔑し、ド素人の娘たちに踊りを教える意欲もないまどか先生だったが、娘たちの熱心さに次第に真剣になっていく。
 実はまどか自身が母親の借金を背負い、半ば自暴自棄になっていたが、ひたむきな娘たちと接するうちに、夢を持つ大切さを思い出していた。そんな彼女の教えは、どんなに辛いときでも「スマイル」、笑顔を忘れないこと。しかし世間の風当たりは強く、さらに予期せぬ出来事が起こり・・・。
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新潟の自然科学館へ

2008-04-21 | 旅行

 孫たちとの約束で2年ぶりに新潟の自然科学館へ行った。目的は恐竜のショウとロボットのゴマちゃんだ。
 ロボットは模様替えされていて白くて愛らしいアザラシのゴマちゃんはいなかった。変わっていたのが学習型ロボット恐竜の「プレオ」とコミュニケーションロボットのネコ「ニャーミー」。武琉君、萌香ちゃんはそれぞれをかわいいと言って抱いて遊んだ。恐竜のショウは2年前と同じだったが、武琉君は事前に学習が進み、さらに充実した視聴となったようだ。

初めてプラネタリュウムを見せた。そろそろ天体にも関心を持たせたいと思っていた。
春の星座の紹介と月周回衛星「かぐや」の役割などを学んだ。5才半、4才には少し早いが40分の上映を飽きることなく見ることができた。

 約2時間の見学だった。二人とも飽きるどころかいろいろな展示に興味を示し、自主的に学んでいた。展示は「自然の科学」「生活の科学」「不思議の広場」「新潟県の移り変わり」の4分野に分けられ、パンフレットの施設紹介に「見て、触れて、操作して学びながら科学に対する興味が湧くように転じ設計された本格的な酸化体験型の総合科学館」とあるとおり、バランスが取れた素晴らしい教育施設だ。
 
 気になることがあった。自然科学のブナ林コーナーでのチョウの標本があまりに古く、自分の所蔵しているチョウを提供したいと思った。ミドリシジミ類やヒオドシチョウ、キマダラヒカゲやクロヒカゲなどが展示されていたが、いずれも色があせて実際とは全く違う。子どもたちにはきちんとした実物を見せなければならないのにとても残念に思えた。

 お昼は準備していった昼食を海岸の砂浜で取った。孫たちは食事もそこそこに、寄せ来る波と実に楽しく遊んだ。武琉君は波を避けようとして転んでズボンを濡らしてしまった。

帰路、新潟ふるさと村へ寄った。丁度、満開のチューリップ畑が壮観だった。多少冷たい風に当たりながら、震えながらソフトクリームを食べた。

いい天気に恵まれた日帰り小旅行は孫たちにとって素晴らしい体験となったに違いない。毎年一度は孫たちを連れて自然科学館の見学をしたいと思っている。

 

春のいわきへ

2008-03-23 | 旅行
 

日曜日を待って、孫を連れ「いわき」へ行ってきた。目的は石炭化石館の見学、そして孫に海を見せたかった。

【抗夫の像】
化石館前のフタバスズキリュウの像の前で記念撮影をして館内へ。すぐに恐竜のぬりえ教室があり、孫たちはそれぞれに好きな恐竜の色塗りをして過ごした。最近ぬりえにとても興味を持っているので丁度良かった。
 1Fの化石展示室の恐竜の模型、化石は圧巻だった。武琉君はトリケラトプスやティラノサウルスなど知ってる恐竜の名前を大きな声で叫んだ。ハドロサウルスの足の骨の化石を触って、記念写真を撮った。
 次に、エレベータで実際に地下600㍍へ下りる雰囲気を味わいながら、採炭の模擬坑道へおりた。石炭発見のころから実際に掘っていた昭和40年代までの採炭の時代の流れを見た。孫たちは坑道を再現する暗い展示場がとても恐かったようだ。武琉はじいちゃん、萌香ちゃんはばあちゃんの手をしっかり握って歩いた。恐怖心をなくすように話をしながらようやく出口へたどり着いた。そのときの孫たちの安堵感が自分にも嬉しかった。
 昔、私がいわきに単身赴任をしていたころ、子どもたちが遊びに来た時化石館へ行ったことがあった。やはり娘はそのときの石炭の坑道の記憶が印象深かったようだ。
 化石館前のD51に乗り、大きな車輪やレール、運転席では計器などを触ったりしてとても嬉しそうだった。
 
 化石館をあとにして小名浜へ向かった。日曜日なので、比較的空いている三崎公園へ行った。近くの食堂はどこも満員で、昼食を少しずらした。みんなで豪華なイクラ丼を頼んだ。私は海鮮丼、我慢できずにビールを一杯ご馳走になった。申し訳ない!あとの運転は娘にまかせてしまった。
三崎公園では、芝生の坂をごろごろ転がって遊んだ。こうした楽しかった思い出がきっと心に刻まれたことだろう。いわきは私にとって思い出の地、あの海岸線の岩肌、波を見つめていたらもう20年も前のことが思い出された。
 
【三崎公園】               【春の海】

 帰路、ご縁のあった三和町のWさんを訪ねた。丸2年ぶりの再会だった。また、福寿草はかなり丈は伸び、見事に咲いていた。
 93,90歳になるご夫婦はお元気で、よく覚えていてくれた。驚いたことに、あれから私が差し上げた葉書や、ときどき新聞に投稿した記事は切り抜いて取っておいてくれた。それらを見せられ、とても有難かった。思えば2年前の1月、いわきで福寿草が咲き始めたとニュースで聞き出かけた。たまたまあるお宅の庭で写真を撮らせて頂いた。その折、お茶をご馳走になり元気なお二人の写真を撮らせていただいた。それからときどきの手紙のやりとりが続いていた。あのとき私の撮ったお二人の写真がテレビの横に飾ってあった。縁は貴いものだと思っている。

 今日の思い出も、きっと幼い子どもたちの脳裏のどこかに刻まれたことと思っている。沢山の体験、感動の積み重ねが子どもたちを大きく成長させると確信している。これからも、子どもたちの目や耳から純粋に入っていく豊かな情報を準備してやりたいと思う。そんな、内容の濃い小旅行となった。






1年ぶりの飯坂温泉

2008-02-26 | 旅行
          【フロントのスケッチ】

  昨日の夕方、妻と1年ぶりの飯坂温泉へ向かった。午前中世話をした萌香ちゃんを、勤めから戻った娘にバトンタッチ。今日は、武琉君の幼稚園保育参観で、ママは勤めを休み萌香ちゃんも連れて行くことになっていた。数少ない旅行のチャンスだった。

 飯坂温泉には、毎年何回か泊まりに行くが、昨年は、1月に泊まったあとは、具合が悪く入退院を繰り返して行けなかった。

旅館に着くと、いつか顔見知りになった受付の方に、しばらくですと挨拶を受けた。フロントには、大分前に差し上げた私のスケッチ「冬の磐梯」が2つ並んで飾られていた。粗末にされていないで良かった。
 早速、温泉に浸かった。風呂場の大きな窓からは、雪がうっすらと斑に残る庭が見える。手前の、まだ枯れたままの芝がいくらか黄緑に見え浅い春を感じさせた。
 何度かの積雪を支えたモミジの雪吊りが、冬の名残を見せていた。福島はほとんど雪が無く驚いた。まだまだ雪がどっさり残っているわが家の庭を思った。一羽のツグミがすぐそこに舞い降り、何かをついばんで飛び去った。
透明な熱い温泉に浸かり、しばらく湯船の泡を見つめた。「よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。」方丈記の一節をつぶやいた。
2月もほどなく終わる。

旅館の宿泊客は月曜日のせいか少なかった。夕食会場の座敷のお膳は約20名と言ったところか。お酒は大きなぐい呑みに「国権の大吟醸」を2ついただいた。ゆっくりとご馳走を美味しく頂いた。何でも美味しくいただけるまでに、健康を取り戻せた幸せがありがたくてならなかった。
 たまには、いつも賑やかな孫の世話で一時も自分の時間が持てない妻にのんびりして欲しかった。最近、そんな思いが募っていた。
 のんびりとくつろぐことが出来た。また、六十肩?か、しばらく右の肩が上がらなかった妻にはいいお湯だったようだ。でも、孫がいなければいないで、いろいろ心配になるものだ。もうご飯は食べたろうか、もう寝ただろうかと・・・。

帰りは、米沢廻りで昼は喜多方ラーメンと計画していたが、栗子峠、大峠の雪道を考えると止めて、早めに帰宅した。
 飯坂線の飯坂温泉駅に寄って、久しぶりに芭蕉の像に会って来た。

昨日夕方に家を出て、午前中に帰宅。高速道で往復、ほんの一瞬の一泊温泉旅行ではあったが、十分くつろぎのときであった。今年は健康に気をつけて、ときどき泊まりに来たいと思っている。


【飯坂駅前の芭蕉の像】
「おくのほそ道」に「温泉あれば湯に入て宿をかるに」と書かれた。


【日本初のラジウム温泉発見の記念碑】 

雪の季節の蕎麦と温泉

2008-02-18 | 旅行
          【小野川温泉 尼湯】

      
 日曜日、久々に孫に開放され、いつものコース「蕎麦と温泉」を楽しむドライブに出た。冬期間はあまり行かなかったが、雪の米沢の様子も見てみたかった。
 春の日差しに恵まれ、多少の春の気配を感じながら雪道を走った。

 喜多方の熊倉にさしかかったときk先生にばったり出会った。懐かしい限りであった。車を止めしばらく話した。勧められて、先生宅へ少し寄ることにした。趣味で飼っている観賞用の錦鯉を見せて頂いた。そういえば、在職中に水質について相談を受けたことがあったことを思い出した。
 養魚池はかなり広く、水深は2メータくらい、色や模様の違った錦鯉が、水温のせいだろうか、とてもゆったりと泳いでいた。
 懐かしい話をし、またの再会を願い辞去した。数分の時間のずれがあれば会うこともなかったであろう偶然の再会を思った。

 大峠にさしかかるカーブでパトカーが片側の通行規制をしていた。なんと大型のトラックが反対車線の山ぎわの雪につっこんでいるではないか。下りのカーブでスリップしたのだろう。もう少し通過が早かったら、事故に巻き込まれたかも知れなかったと思い、k先生との偶然の出会いが、なぜか幸いしたように思われた。
 アイスバーンの雪道を運転に注意しながら大峠を越えた。山形県に入ると一段と雪は深く、道の駅「田沢」なごみの郷はすっぽり雪に埋もれていた。

いつものように、妻は「もりそば」、私は2段重ねの大盛りを註文した。ここの蕎麦はとても美味しく、わざわざ遠くからでも訪ねたい、ときどき食べたくなる蕎麦である。食堂には正月の大きな「団子刺し」が飾られ、賑やかに春を思わせてくれた。


 ゆっくり蕎麦を味わって米沢へ下り小野川温泉を目指した。いつしか雪が舞い始めた。
 国道から逸れると、道は狭くなり、雪はいっそう高く積もっていた。途中、雪下ろしをしている家を何軒も見かけた。さすがにすごい。秋の雪囲いの周到な準備もうなずけるほどの積雪だと思った。
 目的地の小野川温泉「尼湯」はすっぽり雪に埋まっていた。お腹のカテーテルの穴がふさがって初めて、ゆっくり浸かる温泉は実にうれしかった。
小野川温泉はとても熱い。でも、熱いからといって水でうめたりすると客に怒られることがあった。きれいな透明なお湯にゆっくり浸かり、身も心も洗濯することが出来た。おっくうがらずに、また春までにもう一度行きたいと思っている。


那須岳の秋を楽しむ

2007-10-20 | 旅行
            【秋風に揺れるススキ?の穂】

 久しぶりに晴れた休日、思い切って那須へ出かけた。
退院した翌日であり、妻は反対したが、どうしても行きたかった。体調は少し辛いが、以前からの思いは願望に近くなっていた。
 夏から、少し高い山の空気が吸いたいといろいろ計画を巡らせていた。でも、体調を崩したり、天気が悪かったりでどうしても素晴らしい季節を楽しむことができなかった。
そんな思いが募っていた矢先に、再入院しなければならなくなった。今度の入院は長くなりそうだ。折角巡り来た素晴らしい秋が、少しも楽しむことなく過ぎて行ってしまう。

 運転の心配をして妻は娘を誘った。私も孫に秋の山を歩かせたかった。牧場でソフトクリームを食べさせてやりたかったし、ロープウエイに乗せてもやりたかった。
 那須の茶臼岳は小学校のとき登った。もう半世紀も前のこと、ロープウエイはおろか、今走る高原の有料道路もなかった。麓から殺生石を見て、数時間かけての登山だった記憶がある。それが今は歩くことなく、ロープウエイで茶臼岳9合目まで登れるのだ。
 
 東北高速道の那須インター出口からかなりの車だった。子どもたちと牧場の秋を楽しもうと想像して南が丘牧場へ向かった。ところが、何と駐車場は満車では入れそうにない。
牧場の入り口付近は大勢の行楽客でかなり混雑していた。諦めて、今日のメインのロープウエイ駅を目指した。ところが、ここも途中の殺生石付近から渋滞が始まっていた。のろのろ運転でようやく大丸温泉付近へ着くと、この先約10キロなのにロープウエイ麓駅まで1時間の表示だ。考えれば、3連休の秋の行楽シーズンで当然なのだった。はやる気持ちできてしまった。でも折角ここまで来たのだからと、あと500m付近に路上駐車することにした。そこから歩いてロープウエイ駅へ向かいすぐにロープウエイに乗ることができた。案の定、麓の駅の駐車場は満車で、車はほとんど止めることができずに動きが取れない状態だった。

 山頂駅まで少し早い紅葉の林の上をゴンドラで4分、孫は初めてのロープウエイに乗った。山頂へ着くと肌寒い風が秋の深まりを感じさせた。 那須岳が5つの連山からなる総称であることを今回初めて知った。
 付近にはガンコウランなど高山帯の背の低い緑が広がっていた。コケモモかと思ったが、よく見るとそれは花ではなく、白い多肉質の球形果で、葉も似ていたが縁に細かい鋸歯を持つシラタマノキだった。ぽつりぽつりと背の低いエゾリンドウがまだきれいに咲いていた。
   【シラタマノキ】

 茶臼の丸い山頂を仰ぐと、稜線の青空に秋の雲が浮かび、一面風に揺れて輝くススキ?の穂が特に印象的で美しかった。ススキにしては丈が短く、穂も短い。
 右手の稜線の手の届くところに、穂高の山に似た、少し低い朝日岳が聳え、頂きには米粒ほどの人が確認できた。

  【茶臼より朝日岳】

3歳、5歳の孫を連れ、病気上がりの我が身では山頂を目指すことはできなかった。ロープウエイ山頂駅付近のガレ場で、取り急ぎ準備したおにぎりのお昼を広げた。大喜びの孫たちは生き生きして、岩に上ったり滑り易い斜面を散策して遊び廻っていた。
 久々の高原の空気に癒され、少し心を残しながらロープウエイで下った。

 帰路はもう一つの有料道路で羽鳥湖を廻って下郷方面から若松へ戻った。
 翌日は朝から終日の雨降りとなった。ゆっくり那須高原での思い出をふり返りながら身体を休めた。
 ほどなくの入院を前に、一つの願いの叶った思い出に残る、楽しい一日だった。
(2007.10.7)


病身に願い叶いし茶臼岳

   【茶臼岳で】

上野不忍池   検診旅行 2日目

2007-04-07 | 旅行
朝7時のバスで病院へ、診察前の採血の待合室はすでに20人くらいが待っていた。
 いつも病院で思うことは、良くここまで健康を取り戻せたこと。健康に気をつけて1日1日を大切にと。3ヶ月に1度の大学病院通いもいつしか4年目に入った。
数日前にいつもの炎症で発熱したばかりだったせいか、一部異常な数値もあった。

 【満開のナシの花】
いつもより早く診察がすんだので、大学病院から伊勢原駅まで街中に春を感じながら歩いた。ちょうどナシの花が満開だった。健康で歩ける幸せをしみじみ感じた。手術前何回か訪れた図書館に寄ってみた。そのときと変わらない静けさの中で当時の辛かった頃を思い出し、いのち長らえた今を思った。



バス時間まで上野界隈へ桜を楽しみに行くことにした。「敬天愛人」西郷さんの銅像にはもう半世紀ぶりの再会だった。満開の桜の中を清水観音堂から不忍池へ下りた。弁天堂の池の畔でのんびりした。かつてこんなにのんびりしたことがあったろうか。
 【清水観音堂前のヤエベニシダレ】
  
 

 キンクロハジロ、オナガガモ、ユリカモメ、マガモなどが待ちわびた春の陽に実にのどかだった。いつまでも桜に囲まれる水面を見つめていたかった。
 「上野公園桜マップ」には公園の桜がリストアップされていた。公園内の50数種類の桜の分布図が載っている立派な素晴らしい資料だ。ソメイヨシノに混ざり、センリコウ、シロタエ、オオシマザクラなどの白花、八重や枝垂れなどそれぞれに青空に美しく映えていた。帰りに、孫へのお土産を探しながら活気あふれるアメ横の雰囲気を楽しんだ。
 
 3時前の高速バスで帰路についた。
 今回は今までになくとても疲れた。戻ってからまた熱を出してしまった。いつものようにHが並んだ検査結果でがっかりしたが、一喜一憂せずに、これ以上悪くならないように日々気をつけていくしかない。
次回の診察の予約は8月、CT検査もある。それにしても月日の流れは恐ろしいくらいに速いと感じている。ゆっくりばかりはしていられない。(2007.4.5)



「志野と織部」 検診旅行 1日目

2007-04-06 | 旅行
              【皇居外苑・満開の桜】
     
 今朝も麗しの磐梯、朝日に稜線がくっきりと美しい。連なる雄国の山並みに続いて、遙かに堂々と飯豊が見える。毎日が麗しい会津盆地の朝の始まりだ。
 早朝の高速バスで今年初めての大学病院での検診を受けに上京した。
東京に近づくにつれ、沿線に桜が目立つようになっていった。街中にも、ビルの間の公園、路地の街路樹、河川の畔と、実に桜が多いことに気づいた。

前泊の今日は丸の内の出光美術館と皇居周辺の観光を計画した。昼は美味しいお弁当を食べることにした。地下街の食品売り場には色とりどりの食べるのがもったいないほどの美味しそうなお弁当の数々が並んでいた。
 東京の天気予報は「曇りのち午後雨」皇居外苑の満開の桜のもと、ベンチでお弁当を広げた。風が冷たく体感温度もかなり低く、お花見と言った気分ではなかった。でも時折雲間からこぼれる陽がとても暖かく感じられた。
 都会のスズメが人なつっこく寄ってきた。ごはんをあげると先を争って群れになって集まってきた。
 皇居の広場の松林は広々してすがすがしいく、内堀の石垣に桜が美しく咲いていた。もう50年も前に確かに訪れた懐かしの二重橋前で写真を撮った。いろいろな国からの観光客が多くて驚いた。

 楽しみにしていた出光記念館では「志野と織部 風流なうつわ」の展示が行われていた。昨年の春は、同じ出光記念館で「風俗画による日本の暮らし-平安から江戸-」を鑑賞したことを思い出した。(拙ブログ3/12)
 今回「志野と織部」についてあらためて学ぶことができた。本格的「白いうつわ」の獲得である志野焼は美濃の鉄分の少ない白い土に長石釉素朴な白釉陶器で、形がいかにも手捻りの、均整の取れたものでない人間味を感じる。志野や織部の不均斉の造形は魅力の一つだ。わざとらしいのは嫌だが、歪んだ美が何とも言えず美しいと感じている。

【志野茶碗 銘 橋姫 桃山時代】
 今回「国宝 志野茶碗 銘 卯花墻」が展示されていたが、5,6年前に郡山市立美術館で桃山陶芸と魯山人展」の際にも展示されていた。今回は2度目の再会、やはり国宝と聞くといい物に見える。
 また、もう20年以上前に多治見に織部を訪ねたことがあった。そのとき買い求めた志野と織部のぐい呑みをずっと愛用していた。織部の緑が何とも言えずいい。この緑の釉は中国華南三彩をモデルとしたようだ。多治見の陶磁器の資料館へ行ったのは多分秋だったような気がする。窯跡を散策した時、まさか桃山のものでないだろうが、落ち葉の下に古い陶片がいくつもころがっていた。釉がけ前の素焼き段階のものだった。
 一般に織部というと銅緑釉を掛けた焼き物と思われているが、古田織部の指導で登り窯で焼かれたものを総じて織部焼とよぶ。織部黒は瀬戸黒に大胆な歪みを加えた、奇抜で傾いた意匠を描いた茶碗である。志野と織部の造形の核には「風流の精神」が流れていると説明されていた。いずれにしても文様意匠や器形の上でもこれまでの日本の焼き物の枠を打ち破る大きな変革であった。

 美術館のラウンジからは皇居の森が見下ろせた。鑑賞の余韻に浸りながら、大都会の素晴らしい眺めを十分に楽しんだ。
 新宿からは小田急で病院のある伊勢原へ向かった。黒い雲が覆い、車窓に雨が打ち付けた。今日は多分、10キロくらいは歩いたと思う。多少疲れた。
 ホテルのテレビニュースで、千鳥ヶ淵の桜にみぞれ混じりの雪の光景が放映されていた。冬へ逆戻りしたようで、この時期にしては本当に寒かった。 (2007.4/4)

 【満開の桜・東京駅】

蕎麦、温泉旅行

2006-11-21 | 旅行
  《北山から飯豊連峰を望む》


晩秋の大峠を越えると米沢までわずか、一昨日の日曜日、田沢の道の駅「なごみ」で新そばに鼓を打った。
いつも、大盛りのもりそばを頼んでいる。どこのそばより好きで、ほぼ、月に1度、昼にそばを食べ、温泉に浸かって帰るだけの贅沢旅行をしている。



おもての売店で珍しい赤かぶを見つけ買った。大きい玉4株が150円。玉の上半分がアントシアニンで、下半分が土に埋まっていたのか白い。
 山形の温海町で栽培されていた庄内藩名産の赤かぶ、温海かぶが有名だが、色合いを見ながら信州の野沢菜を思い出した。
 また、いつものように山形名物の温かい玉こんにゃくに辛子を塗って食べた。


 米沢街道、米沢の入り口の道路沿いの果樹園で大きなフジを求めた。ここも、毎年同じ思い出がある。おまけにと、千秋というリンゴを沢山いただき、うんと得した気分になった。

 小一時間ほどのドライブだが、途中、頻繁に車を止めて晩秋の景色を撮影をするのが常だ。イチョウの大木を囲む、敷き詰めた黄色い落ち葉に、銀杏がころころ落ちていた。北山あたりからは、すっかり雪化粧した飯豊連山が雄大に見えた。収穫を待つ真っ赤なリンゴがたわわに実ったさわやかなリンゴ畑等など、心に響く里山の風景が広がった。


 妻のありきたりのスーパーでのショッピングに付き合い、帰路小野川温泉に浸かる。尼湯の入湯料は200円、熱いお湯だ。のんびり心の洗濯をして、帰りに温泉玉子を求め帰路についた。
 繰り返す「蕎麦、温泉旅行」はささやかな贅沢だ。

(参)拙ブログ 3/11「蕎麦と温泉を楽む」


受賞小旅行

2006-11-15 | 旅行


 11/15 はからずも、ささやかな表彰を受けることになった。体調も心配だったが、折角なので、産業教育功労者表彰伝達式に出席することにした。
 自分の打ち込んだ半生の足跡を振り返り、見つめてみたいと思ったからだった。

 ○ 前日は飯坂温泉に泊まることにした。午後三時過ぎに妻と土湯回りで福島へ向かった。中ノ沢までの晩秋の風景は、峠が近づくにつれて一気に冬に変わっていった。数日前の雪が道路の端に残り、すっかり葉を落とした木々が冷たい風をいっそう寒々感じさせた。夕暮れが近い木々に白樺の幹が特に美しく見えた。

 ○ 当日は昼食を兼ねての表彰伝達式だった。何年ぶりかの背広、ネクタイで旅館を出た。リンゴ畑を眺めながらフルーツラインを走らせ、途中、直販所でサンフジ、王林などを、また白菜、葱などの野菜を沢山求めた。
 受付までの時間、会場近くの旧日本銀行の福島支店長役宅:御倉邸を見学した。
 絹の集散地として栄えた福島市には、東北で初めて日本銀行が設置され、阿武隈川河畔にある歴代の支店長宅は、現在一般に公開されている。静かな落ち着いた庭から、光る阿武隈川が美しく見えた。円筒状に苅られたサザンカの大木が、うすピンクの大きな花を咲かせていた。所々に、松が美しく、根元にはシャリンバイの実がたわわに実っていた。
 式の最中、妻はもう30年ぶりになるか、すっかり変わった福島の街を散策、ショッピングに自分だけの世界を過ごした。

 ○ 帰路も土湯回りにした。土湯峠手前の「原郷のこけし群 西田記念館」を見学した。こけしの蒐集、研究、指導者西田峯吉のコレクションで、もう数十年も近くを通過するだけで、何時か見たいと思っていた。
 東北地方独特の湯治の習慣と木地師の存在が、こけしを発生させ、東北地方の厳しい風土が育んだこけしが所狭しと並んでいた。現在東北6県に11系統のこけしが見られるという。木地は昔はミズキやマンサクなど利用価値の低い材を用いていたが、今は、木地の美しさを見せるためサクラやツバキ、ナシなどの有色材を用いているとのことだ。
 同時に展示されていた写真家、矢田金一郎の作品に目を奪われた。七が宿を中心とした
今はない、過ぎ去ってしまった山村の、貧しいが豊かな生活が克明に撮されていて、強い郷愁を覚えざるを得なかった。
記念館からは、真っ白に冠雪した吾妻小富士や一切経山の雄大な景色が広がっていた。麓の晩秋の紅葉とのコントラストが何ともいえず美しかった。

 ○ 秋の錦の彩りの世界は、今、無機質の、水墨の世界へと移りつつある。木々が葉を落とし、冬が景色を支配していた。ダメを押して雪の美しさが厳しい冬の始まりだとおもった。土湯峠は沿道に積雪、木々が一面の銀世界と変わっていた。
もうタイヤ交換をしなければ峠越えは無理となった。いよいよ本格的な冬の到来だ。





奥日光の紅葉を楽しむ

2006-10-14 | 旅行
 昨日、思い立って奥日光へ出かけた。前日にネットで宿を取った。紅葉のこの時期、奥日光はどこの旅館もほとんど満室だったが、偶然「湯守釜屋」へ宿泊予約が取れた。
 昼12時、出発、国道121号で田島へ。道の駅田島で、昼食、山菜蕎麦を食べる。
 五十里湖から、川俣温泉を経て山王峠越えで日光へ行くことにした。
 紅葉は、田島あたりはそろそろ始まり、山王峠付近はちょうど見頃であった。4時過ぎ戦場ヶ原3本松に寄り、展望台から広々した戦場ヶ原の草紅葉を眺めた。山の頂を覆う雲の切れ目から、日没前の秋の陽の光線が空一杯に散乱していた。
 宿に入り、すぐにかけ流しの温泉に浸かった。乳白色のすばらしい温泉(硫化水素泉)で、これまでに入った3本の指に入る良い湯だった。夕食を美味しく、つい調子に乗りすぎたようだ。最近体調も良くなり、また飲み始めたが注意!注意!、それが原因ではないだろうが、もう一度温泉に入ったころから様子がおかしくなった。ほどなく寒気がし始め急に発熱、体温計はなかったが、多分38℃を超えていたと思われる。いつもの手術後の炎症によるものかも知れないと、常備薬を飲んで、上掛けをもう一枚重ねふるえていた。妻に、濡れ手ぬぐいを替え続けて介護してもらったが、良くない。いよいよ仕方なく、フロントに氷枕をお願いした。12時を廻っていたが、旅館の方がすぐに持ってきてくれた。その対応はとても感じが良く有難いと思った。
 このまま入院になるのではとか、息子、娘に迎えに来てもらい帰るしかないかなどと思った。大手術から3年が経って、今が一番調子が良かったが、ちょうど1ヶ月前に半年ぶりに発熱、約3週間苦しんだ。ようやく良くなり落ち着いたと思っていたら、先週また発熱。微熱ですぐに治まったが、また同じかと思い覚悟を決めた。
ところが翌朝、奇跡的?に熱は下がった。お腹が空いて、朝食も腹8分目食べることができた。朝食会場では私の大好きなアルビノーニのアダージョが静かに流れていた。神様が付いていてくれたと思った。熱が下がり、気をつけながら計画通り奥日光の紅葉を楽しむことにした。
 湯の湖畔を散策して、日光湯元ビジターセンターを訪ねた後、戦場ヶ原へ向かった。
【男体山:小田代が原より】

                                    【小田代ヶ原の草紅葉】












【西の湖までのシラカバ林】


赤沼から小田代ヶ原まで、約1時間、カラマツ、ズミ、ミズナラの紅葉の林の中を、すがすがしい気持ちで歩いた。小田代ヶ原は鹿の食害から生態系を守るため、電気柵で囲まれていて驚いた。原の向こうには太郎山、男体山が聳え、ジュウタンを敷き詰めたような草紅葉が本当に美しかった。草紅葉の赤い模様はホザキシモツケのようだ。
小田代ヶ原脇の林道に出て、低公害バスで西の湖へ寄ることにした。西の湖入り口で下車、約1キロのシラカバや樹齢千年を超えるミズナラの林を抜けると静かな湖がひっそりと佇んでいた。途中の中禅寺湖へ注ぐ清流沿いの紅葉はたとえようもなく美しかった。
 竜頭の滝では、滝に沿って整備された遊歩道を、上流から売店のある下流まで、滝の流れに映えるすばらしい紅葉を堪能できた。
 中禅寺湖畔の日光自然博物館で遅い昼食を取り、館内をゆっくり見た。日光のすばらしい自然、文化を改めて知ることができた。
 いろは坂を下り、今市から会津西街道を会津若松へ急いだ。今回は紅葉が目的だったが、来年は、蝶、トンボなど虫たちや高山植物を楽しみに、夏に訪れたいと思う。
 今回の小旅行では、助からない命を長らえ、この秋の美しい錦にふれ本当に幸せを感じることができた。反省をもとに、いつも医者に何時も言われていること、「身体を動かすこと」「食べ過ぎに注意すること」を守って、おだやかに大切な日々を過ごしたいと思っている。

【竜頭の滝】

故郷への墓参り  3日目

2006-08-16 | 旅行
         《スケッチ「四賀から北アルプスを望む」》

故郷への墓参り  3日目(2006.8.11)
       四賀~ 扉峠~ 八島が原湿原 ~車山~ 松本 

 9時前に、上田-松本線を松本へ。途中、召田の交差点付近から北アルプスを望む。去年の春にこの場所から北アルプスを描いたスケッチを姉たちに持参した。

 松本の里山辺から扉峠へ。峠から蓼科、八ヶ岳の山並みを遠望した。夏の空に、もやにかすんだ山々がきれいだった。扉峠からビーナスラインを霧ヶ峰方面に向かう。八島が原湿原駐車場は満車で、約10分待ちで停車できた。約1キロほど池の周囲の木道を歩いた。子ども連れの家族や年配者の団体が多かった。特に美しいと思ったのはアカバナシモツケ、コウリンカなど、ヨツバヒヨドリ、クガイソウ、コウゾリナ、ツリガネニンジン、ヤナギラン、キンミズヒキ、タチフウロ、ハバヤマフウロなど一つ一つ美しい草花を写真に撮った。チョウはヒョウモン類、キアゲハ、ヒメシジミなど、比較的少ないと思った。池の周りの高層湿原を高山植物を観賞しながらの散策はとてもさわやかで楽しかった。
八島が原湿原をあとに、ビーナスラインの雄大な草原の丘の間を車山高原へ向かった。リフトで山頂まで登ったが、リフトの下に移りゆく自然に心が洗われ、すばらしいショウを堪能した。標高1925メートルの山頂からの360℃の眺望を楽しんだ。八ヶ岳の裾野のはるか彼方に黒い富士山がかすかに見えた。遠望する北アルプスの山々は夏の季節特有に薄く靄って見えた。吹く風が汗に涼しく気持ちがいい。 山頂にはマツムシソウが美しく咲き乱れ、淡い紫色の花に集まる花アブをズームアップした。また、吸蜜するギンボシヒョウモンの美しさはたとえようもなかった。時折、草むらからジャノメチョウが飛び立ち、風に流された。山頂が好きなキアゲハが、登山者の間を行ったり来たりして舞っていた。

 車山をあとに白樺湖から茅野市へ下り、諏訪インターから中央高速に乗って松本の義姉の家へ向かった。松本空港の近くの姉の家には、子どもたちと小学生の頃お邪魔した時以来だった。もう20年も前、まだ両親も元気で家族中で楽しんだ信州博覧会の会場の脇にあった。今そこは広大な公園になっていて、少し日が傾いたころ兄、姉の案内で公園内を歩いた。大阪行きの飛行機が飛び立って行くのを見た。 夕食をご馳走になり、久々の団らんを過ごしたが、話題は病気のこと、お互いの健康を願った。
 夜8時過ぎに実家へ戻り、待っていた兄、姉と飲み直した。

 この3,4日の墓参りの旅は、健康を確認する旅となった。遠路車を走らせ、高原を飛び回り、3食美味しくものを食べ、お酒も美味しく飲んでいる。ここまで健康を取り戻した今を思うと、感謝、感謝の気持ちで一杯になった。
 お互いに年を取った。年々の衰えは仕方ないが、毎日健康に留意して、今を大切に精一杯の日々をと誓う旅であった。

 【明日は会津へ戻る】

《マツムシソウに吸蜜するギンボシヒョウモン》