エッセイ  - 麗しの磐梯 -

「心豊かな日々」をテーマに、エッセイやスケッチを楽しみ、こころ穏やかに生活したい。

故郷への墓参り 第2日

2006-08-15 | 旅行
《お盆の時期に咲くナツズイセン》

(2006.8.10) 墓参り~ 霧ヶ峰~ 松本
 
 朝のうちにお墓に参った。1年ぶりに、庭の百日草を手折り、線香を手向けた。
どうぞご加護下さい。一生懸命に生きますからと。盆や彼岸にはどうしても父母に会いたいと思っている。なんだか最近は、強くそう思う。お墓からの帰り道、穂を出し始めた田んぼの畦には、いつも変わらぬ淡いピンクのナツズイセンが優しく咲いていた。
 9時すぎ、ブログ仲間のittokuさん(http://blog.goo.ne.jp/ittoku-shiga)へ手みやげ(会津の菓子「きてくたされ」、四賀からの常念岳のスケッチ写真A4)持ち訪問したが留守。勤務先へ伝言添えて依頼した。
 明科へ向かう。途中長峰山山頂へ。山頂はうす黄色のユウスゲが可憐に涼しい風に揺れていた。眼下に常念岳の麓に広がる安曇野をのぞんだ。
 犀川沿いの霧姉の家へ。完成したばかりの新築のお祝いに寄る。立派な大きな家だ。どこかに飾ってもらおうと、牛乳パックから再生した和紙に描いた「安曇野・常念岳」の水彩画をお祝いに贈った。兄や姉には昨年の姉妹会以来で1年ぶりの再会、ちょうど休みだった甥にも会えた。甥の息子は真っ黒に日焼けして健康的で覇気のあるいい息子に育っていた。
 秋に新築のお披露目をかねて今年の姉妹会を計画するとのこと。また秋に来たいと思う。

お昼をご馳走になり安曇野付近を廻った。昨年、初めて参拝した満願寺(我が家の菩提寺と同じ宗派)へ寄った。昨年、同じ時期、寺境内にはゴイシシジミが沢山見られたが、今年は全く見られなかった。参道のギボウシの開花も昨年より遅いようなので、おそらくもうじきの発生なのだろうと思った。参道に一輪咲くマツモトセンノウを認めた。本堂に参り、おみくじを引いた。末吉!。病気は弱気にならなければ完治するとあった。図星と思った。いつもの弱気を止めたいと思った。「来年は元気でお参りができるといいが・・・」、ではなく、「絶対お参りする」と言った前向きの姿勢でなければと思った。大手術から丸3年、もっと気丈に生きたいと思う。
 本堂前で記帳をしたが、前の参拝者の記帳名を見て驚いた。同じ名前の人だ。参道ですれ違い、一言言葉を交わした人だった。まれにしか見かけることのない名前が、こんなところで、しかも数分間に連署された。不思議な偶然を思った。
数か所の道祖神を廻り、いつも訪ねる田淵行男記念館へも寄った。記念館には何度も入るが、またも偉大なナチュラリストから教えられることは多かった。しばし安曇野の空気に触れ、安らぎを感じ取ることができた。

 もう一つおもしろいことがあった。豊科から妻の実家へ戻る途中のこと。街道沿いに青空市場の旗がはためき、「甘~いスイカ」の看板が見えた。傍らにスイカを荷台一杯にした軽トラックが数台止まり、にわか作りのテントの脇にごろごろとスイカが並べられていた。【「叔父さん、おすすめのスイカを選んで!」「どこまで持って行くのか」「◇◇です」「へー、◇◇のどこだい。」「○○です。」「へー、俺は、○○だが○○には▽▽という同級生がいたよ。」「エー!それは私の姉です」】と妻との問答。スイカを前にする叔父さんの写真を撮り、叔父さんの書いた住所に送ることにした。こだまのスイカをサービスにもらい、土産話ができたと思った。世の中は実に狭いと思った。
 今日のこれらの出会い、人と人のつながりとは不思議なものだとあらためて思った。


夜、ブログ仲間の「四賀の里から」のittokuさんが見えた。初対面だったがいつモブログでのやりとりから初めて会ったような気がしなかった。四賀の地の「山の畑の桑の実ジャム」を頂いた。姪も同じ地域でお世話になっている。これからも頑張って下さいと激励した。

 【明日は霧ヶ峰高原への予定】

《新築祝いに贈ったスケッチ「安曇野・常念岳」》

故郷への墓参り 第1日

2006-08-14 | 旅行
《木漏れ日に透けるアサギマダラ》

故郷への墓参り 第1日(2006.8.9)
    会津若松~戸隠高原~四賀(松本市)
   
 今年も、お盆の民族大移動が始まる。お盆前に少しでもラッシュを避けてと、妻のふるさとへ両親のお墓参りに出かけた。3泊の予定だが、出発に会わせるように3つの台風が日本列島に近づき、どうも信州にいる間中、雨模様のようだ。でも、多少の心配をしながら出発したが、台風は静岡県沖から方向を東に変え、房総半島沖に抜けたようだ。
 むしろ台風一過になり、途中真夏の好天に恵まれ絶好の信州への小旅行のスタートとなった。 あさ9時過ぎに自宅を出て、会津若松インターから磐越自動車道を新潟へ。比較的空いた道を順調に走り、上越を過ぎた。妙高高原サービスエアリアまで2時間30分、昼食を取った。ここは、駐車場には珍しく緑の日陰にスペースが配置され、ちょうど木の陰に止めることができた。日差しは強かったが、高原を吹く風はさわやかだった。夏の雲がかかり、美しく聳える妙高を眺めながらベンチでおにぎりをほおばった。
 信濃町ICで下道に出てから黒姫高原に寄り、戸隠の森林植物園を目指した。
沿道にはシシウドの花が高く伸び、ミドリヒョウモンが飛び交い、ときどき車を止めシャッターを切った。
 楽しみにしていた植物園だが、時間の関係もあり今回は1時間の予定で散策した。園の入り口にある森林学習館に立ちより、いろいろ工夫された戸隠の自然の情報を楽しく見学することができた。
 林間の木漏れ日の向こうに「みどりが池」が静まりかえり、池の畔では老人が水彩画を描いていた。畔のヒヨドリバナにはミドリヒョウモン、メスグロヒョウモン、オオウラギンスジヒョウモン、コヒョウモンなどが飛び交い、クガイソウにミヤマカラスアゲハが美しく輝く羽を広げ蜜を吸っていた。美しい夢の世界に感嘆しながら、我を忘れてファインダーの妖精達を撮り続けた。また、期待していた数頭のアサギマダラが林間を弱々しく舞い、ヒヨドリバナに止まった。吸蜜するアサギマダラの羽根が林の木漏れ日に透け、この上なく美しく、感動した。これから長い旅をするアサギマダラを思い、存分にひとときの安らぎを味わわせたいと思った。路傍にエルタテハの姿も見かけたが、シャッターチャンスを失ってしまった。
 今回は、広い園内のほんの一部しか散策できなかったが、見るものすべてがさわやかで、きれいだった。いつか、もう一度時間を取って観察に訪れたいと思った。
 4時30分に長野東ICで、妻の親友と待ち合わせた。昨年、40年ぶりに再会を果たした彼女らは、ときどきメールのやりとりをしていた。1時間ほど、私はガソリン給油、本屋で時間つぶした。
 また高速・長野道に乗り、妻の実家へは6時半過ぎに無事到着、すでに庭でバーベキューが始まっていた。仏壇の両親に御無沙汰を詫び、線香を手向けた。
 久しぶりに実家の姉、兄と姪の一家と楽しい夕食を取った。いつも、私たちが帰省するときには必ず庭でバーベキューをした。何十年も繰り返してきた折々の思い出は尽きない。
【明日は墓参りと安曇野散策の予定】

《白雲なびく妙高山》  

良寛を歩く  (その6)

2006-06-16 | 旅行
    《良寛和尚像と詩碑》


柳津讃美! 良寛漢詩碑に思う

柳津・つきみが丘にブロンズの良寛像と漢詩の碑がある。
 よく温泉に入りに行くが、その都度像をながめていた。
最近この漢詩碑の内容を調べてみた。これは、良寛が「秋夜宿香聚閣」と題した、実に五言34句の長い漢詩で、荘厳な寺院と周りの景色を賛美している。この真筆の遺墨は出雲崎の良寛記念館にある。
 良寛は全国を殆ど行脚して回っていたというが、よほど柳津円蔵寺での眺めが良かったのだろう。 香聚閣(の円蔵寺)に泊まり、過ごした様子が細かく書かれ、特に麗しい周囲の自然風景に感動している。よほど気に入ったと思われる。
 良寛が訪れたのは秋と言われるが、詩の感動は春から夏の今の時期のような感じがする。いま、その漢詩に書かれた良寛の感懐を共有したいと思い、円蔵寺に参拝した。
 この詩で、良寛は立ち去りがたい思いを
「人間有虧盈 再来定何年 欲去且彷徨 卓錫思茫然 」と表現している。
当時と変わらないすばらしい景色を前に、そんな良寛の心境を思った。

     《春の円蔵寺》

参)拙ブログ
 6/17【良寛を歩く(その7)】
 6/9 【良寛を歩く(その5)】
 6/4 【良寛を歩く(その4)】
 6/2 【良寛を歩く(その3)】
 5/29【良寛を歩く(その2)】
 5/25【良寛を歩く(その1)】

初夏の風にゆれる 可憐なヒメサユリ

2006-06-12 | 旅行


 天気予報は曇りだったが、午後からは梅雨明けを思わせる初夏の日差しが照りつけた。
午後2時を廻っていたが、思い立って(いつものこと)見頃を迎えたと思われる熱塩加納のヒメサユリを観に出かけた。今回も娘と孫2人と妻と5人連れだ。
 ヒメサユリの群生地は奥会津南郷村が有名だが、熱塩加納(現在は喜多方市に合併)の群生地、ひめさゆりの丘もすばらしかった。
  ヒメサユリは山形・福島・新潟県の県境周辺にのみ自生するユリで、南会津では浅草岳、会津朝日岳にしか分布しない貴重な植物。熱塩加納村では乱獲され絶滅寸前だったが、保護増殖に努め、群落をなすまでになったと言う。保護増殖地に群生する「ヒメサユり」は、種子から自然に増殖したもので、花を着けるまで5・6年もかかるそうだ。
 ほかのユリより早く咲き、花の色は淡ピンクから濃ピンクまであり可憐で美しい。
 散策中に白花のヒメサユリを1株見つけた。いま、丁度満開だった。花に近づくと芳香があり、コアオハナムグリが蜜に群れていた。2、3輪咲きが多かったが、中には7,8輪花を付けているものもあった。また、群生地には朱色のヤマツツジも今が盛りできれいだった。
 山一面にうす紅色の花が、初夏の風にゆれて咲く光景はすばらしかった。
また来年6月に訪ねたい。

丘の入り口には歌碑があった。
  「ひめさゆり物語      
      美しい乙女は恋に落ち
      彼の帰りを待ちわびながら 
      いつしか深い眠りにつき 
      やがて一輪の草花となった
      さわやかな風に揺られながら
      優しく可憐に咲き匂う
      ひめさゆりは
      乙女の面影そのものである   

帰路、喜多方・蔵の湯の温泉に浸かった。空いていて、女風呂から孫たちの歓声がこだましていた。

   《ヒメサユリの丘》

夏を迎える雄国沼

2006-06-06 | 旅行
      《夏を迎える雄国沼》

 天気予報では、そろそろ梅雨入りがあるという。穏やかに晴れた昨日の朝、思いついて何年かぶりに雄国沼へ出かけた。
 金沢峠から雄国沼の木道までの下りの山道は、歩きやすく木のチップが敷き詰められた階段が整備されていて、小さな孫たちも楽に登り下りすることができた。

 いつもは梅雨の晴れ間にニッコウキスゲを楽しみに行くが、案の定、まだ時期が早く、ようやくつぼみをもたげ始めたところだった。沼の周囲のタニウツギやレンゲツツジもまだつぼみ、咲き誇ったヤマザクラが正に散り始めたところだった。
 でも、日差しはもう夏を思わせ、湿原には、淡紫色のタテヤマリンドウや白いミツバオウレンが群れをなして咲いていた。また、オレンジっぽい色のショウジョウバカマや、ワタスゲがかすかに風に揺れ、沼へ注ぐ浅い川の流れにリュウキンカが鮮やかに美しく咲いていた。
 今日は麓から峠にかけて、ウスバシロチョウ、カラスアゲハ、コツバメ、ヤマキマダラヒカゲ、ミドリヒョウモンなどに出逢った。また、レンゲツツジの花に蜜を吸うスキバホウジャクをじっくり観察しながら写真に納めた。いつも虫たちとの新しい出会いが楽しい。

 沼の対岸の猫魔岳に連なる山々の、淡い若葉の色合が特に美しく、ホトトギスの繰り返す鳴き声、カエルの声が響く湖畔での静寂のなかで、娘と2人の孫と妻と私、木道でおにぎりを頬張り、満ち足りたひとときを過ごすことができた。
幼い孫二人は、木道を大人の手を振り切って一歩一歩元気に進み、大自然の中で、生き生きした時を過ごした。


 今度は梅雨明け頃、コバイケイソウやニッコウキスゲを見に行きたいと思っている。

《清楚なタテヤマリンドウ》

《鮮やかなリュウキンカ》


《ニッコウキスゲのつぼみに止まるヒゲナガカワトビケラの仲間》

良寛を歩く  (その2)

2006-05-29 | 旅行
        《良寛堂》

出雲崎に良寛の生家跡を訪う」 (2006.5.24)

 今回の旅は、当時、父が訪ねたかった良寛の生家跡をもう一度見てみたいと思った。そして出雲崎の街並みをながめ、良寛記念館で良寛の遺墨を鑑賞したかった。
良寛堂は大正時代に、良寛の生家、橘屋の跡地に建てられた。日本海を背にして佐渡が見える。また良寛堂の裏には、最近建てられたのだろう、新しく良寛座像が、静かに母の里佐渡を見つめていた。

       《良寛堂の裏で佐渡を見つめる》

良寛堂内部の石塔には良寛持仏の「枕地蔵」がはめ込まれ、その下に良寛の歌が黒御影石に彫られていた。
いにしえにかはらぬものはありそみとむかいにみゆるさどのしまなり 良寛」 

 高台からながめる北国街道、出雲崎の家並みは五月の緑に美しかった。心地よい5月の風に吹かれながら、ふと、あの冬の日本海の荒波を背に、雪のちらつく同じ家並みが目に浮かんできた。

        《出雲崎の家並み》

 閉館間際に飛び込んだ良寛記念館では、「良寛 漢詩の世界」が開催され、遺墨の数々が展示されていた。最近、私の興味は良寛の生き方から書に移り始めていた。特にすばらしい漢詩に関心を持ち、そこから彼の生き方を教えられている。
 記念館では、鉄製の良寛座像の文鎮を求めた。机上に置いて、時折良寛を思うよすがにしたいと思った。
 記念館の裏の丘にのぼると、そこには子どもたちと遊ぶ良寛の像が建てられていた。また「にいがた景勝百選一位当選の地」の碑が建ち、なるほど、あらためて海と山と家並みのすばらしい眺めを楽しむことができた。 
 ここでも、心の豊かさをもう一度見つめなおすことができた。

参)拙ブログ
 6/17【良寛を歩く(その7)】
 6/16【良寛を歩く(その6)】
 6/9 【良寛を歩く(その5)】     
 6/4 【良寛を歩く(その4)】
 6/2 【良寛を歩く(その3)】
 5/25【良寛を歩く(その1)】

良寛を歩く  (その1)

2006-05-25 | 旅行
         《緑の中の五合庵》
 
新緑の国上山に良寛を偲ぶ」 (2006.5.24)

 また、良寛を訪ねる旅がしたいと思った。久々にさわやかな天気に恵まれた昨日、何度目になるだろうか、良寛生誕の地、出雲崎をめざした。
 ときどき、新潟へ良寛ゆかりの地を訪ねてきたが、初めて出雲崎の良寛堂を訪ねたのはもう20年も前だった。それは父の所望で、当時、私自身特に興味もなく、ただ運転手を務めた。父の良寛の話も上の空で聞いていた。
 思えば父はいつも良寛を語っていた。その後、父の残した良寛に関する本を読んだりしているうちに、次第に自分も良寛に傾倒して行った。
良寛の見たものと同じものを自分も見てみたいと思う旅だった。そこで彼が何を考え、どんな生活していたのかを知りたかった。次第に、良寛の「騰々として天真に任せる」生き方や「知足の精神」を尊敬しあこがれるようになった。

国上山、五合庵へは3度目になる。国上寺本堂はさわやかな緑の中にあった。良寛も長い厳しい冬を越し、山々の新緑をどれだけさわやかな気持ちで見つめたことだろうか。200年前に良寛が日々歩いたであろう杉並木の山道は、昨日の雨にしっとりと濡れていた。ひっそり佇む五合庵に来ると、いつも良寛の清貧の生き方を思い、日頃の贅沢を恥じざるを得ない。
良寛は五合庵で39才の年から20年、その下の乙子神社に10年を過ごしたという。国上寺では中興の祖と言われる客層、万元和尚の労に報いて小庵を建て、毎日5合のお米を給したと言う。万元は小庵を「五合庵」と呼んだ。五合庵の裏手にその万元上人墓碑があった。
 乙子神社の右手には良寛の詩歌碑があった。 いつからか私の座右の銘にしている「生涯懶立身 騰々任天真」の漢詩だ。あらためてそんな生き方を確認した。

参)拙ブログ
 6/17【良寛を歩く(その7)】
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 6/9 【良寛を歩く(その5)】     
 6/4 【良寛を歩く(その4)】
 6/2 【良寛を歩く(その3)】
 5/29【良寛を歩く(その2)】
 

孫と温泉に泊まる

2006-03-20 | 旅行
 丁度一週間前になる。3歳半の孫を連れて飯坂温泉に泊まった。
もう数字を覚えはじめた孫は、1ヶ月も前からカレンダーを見ながら、祖父母との温泉行きを楽しみにしていた。
 その日天気は久しぶりの冬型で雪降り、また冬へ逆戻りだった。高速道が、昼過ぎ若松から熱海まで吹雪で止まっていたので、3時過ぎに出かけた。その数日前は気温が13度まで上がり、もう冬タイヤを交換する人が多かったが、交換しなくて良かった。
 孫は家を離れて、環境の違う旅館で大はしゃぎだった。昼寝もしなかったので、
風呂に入り夕食の時にはもう眠くて、身体のやりようがなかった。食事も好きなものだけを少しつまんだだけ、ばあちゃんの横で寝てしまった。
 部屋に戻ると元気が出てきた。窓から外を眺めたり、物珍しいスタンドのスイッチや貴重品金庫の鍵をいじったりして一人遊んだ。
 やがて眠くなったが、なかなか眠れない。そのうち、お家に帰りたいと。ママは?と。
毎晩我が家で、ばあちゃんと寝ているのに、孫のそんな一言に驚き、寂しいような愛おしいような気持ちだった。普段見せないいろいろな感情が芽生えていることを知り、嬉しく、また胸が締め付けられるような複雑な気持ちがした。
 大好きな祖父母との温泉宿の一夜がこうした暮れた。

     飯坂の 湯気に静かに 朝の雪

バスツアー紀行(3の3)

2006-02-21 | 旅行
バスツアー紀行(3の2)続き

第2日 (2/16) 八ヶ岳~甲府~河口湖~アクアライン~富浦

 八ヶ岳と富士の眺めを一番楽しみにしていたが、高原は朝から霧雨に煙っていた。
雨の中、バスは至る所ブドウ棚が広がる甲府市石和のワイン工場へ。各種ワインの試飲はとても美味しかった。甘いカリン入りのワインを求めた。石和温泉には長男が1歳のころ、家族で泊まったことがあった。あれから30年余、その折りに観光ぶどう園で妻に抱かれ、ブドウに手を伸ばす息子の写真が残っている。そこで、妻に水晶の指輪をプレゼントしたことを思い出した。
 石和から河口湖へ、雨は止んだがどんよりした雲に覆われ、富士は全く望めなかった。本当に残念だった。またの機会に富士をじっくり眺める旅をしたいと思った。
後は東名道をひた走り、一路房総をめざした。途中アクアラインの海ほたるへ寄った。東京湾のど真ん中、当然のごとく横なぐりの雨降りだ。展望台で記念撮影をしてすぐにバスへ戻った。
横浜から千葉へは海の上を一またぎだった。今、高速道は木更津から君津までで、あちこちで延長工事中であった。沿道の山は海の底にありそうな形をしていて、右手に鋸山を眺めながら2日目の晩を過ごす富浦へ向かった。

第3日(2/17) 富浦~花倶楽部・水仙郷~成田~水戸~郡山

朝ホテルのロビーから太平洋を望み写真撮影。植え込みには南国を思わせる、5~6メートルもあるシュロの木が茂っていた。道路沿いの畑には菜の花がきれいに咲き、自生する枇杷の花も白い花を付けていた。その名も道の駅、枇杷花倶楽部でポピーの花摘みをした。


これから咲くのを楽しみに、同じ株の色を頼りに大きなつぼみを10本摘んだ 摘み取ったポピーのつぼみは、バスの中の暖かさではじけて、あちらこちらで華やかに咲き始めていた。安田港近くの水仙郷では、もう水仙の花は終わりに近かった。その売店でギラと言う魚の干物をあぶって試食し、土産に買った。初めて見る、小さなタナゴのような魚はヒイラギというらしい。くすぶる煙が静かに立ち上る山里の畑は、白いウメが満開で、まさに春の桃源郷であった。
 長時間の、狭いバスの旅は少々つらい。ひた走り、成田山新勝寺へついたのは午後1時を廻っていた。小学生のころ家族でお参りした写真が残っているが、まったく記憶にない。
 ご本尊の不動明王にお参りした。慈悲にすがりたいが、私のお参りはいつも自分を叱咤激励し、自己の心をまとめる所作である。
 最後の観光は水戸偕楽園。
   
数日後から梅祭りと言うが、ウメはまだ早かった。何とか早咲きの紅梅を楽しむことができた。偕楽園近くの千波湖にも数は少ないがハクチョウが飛来していた。また、ここで初めてコクチョウを見た。5,6羽いたが、珍しいので写真に撮った。後から調べたら、オーストラリア原産の鑑賞用種で、どうも飼育されているようだ。
 水戸からは約170キロくらいか、乗り継ぎの「会津若松行き」高速バスに間に合うように郡山駅に到着した。ツアー参加はほとんど福島からで、若松からの参加は、他にいないようだった。
 雪の残る自宅についたのが9時半、すっかり冬に逆戻り、雪がチラチラ舞っていた。
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 2泊3日のバスツアーを終えて、簡単な紀行をまとめた。
狭いシートに同じ姿勢で座っての長旅だったが 、ぶらりと何も考えずに気楽な旅だった。静かに、諸々こころの整理もできた。何よりも、今回の小旅行は、はからずも青春の思い出の地を巡る旅のようであった。
 たまの旅行は良い。普段と違った状況で目にするものはすべてが新鮮で貴く思われる。人生もそんな新しい出会いの旅でありたいと思った。

【バスの走行距離】 1日目:約480km、 2日目:約295km、 3日目約410km
運転手さんは一人でした。本当にお疲れさまでした。ありがとうございました。

バスツアー紀行(3の2)

2006-02-21 | 旅行
バスツアー紀行(3の1)続き

上田~別所温泉~松本~諏訪~八ヶ岳

   
 かつて蝶を求めた山麓には高速道路が走り、そこに懐かしの自然はもう無かった。
昔、街を見下ろす山裾には、オオムラサキ、スミナガシ、ヤマキチョウ、メスアカミドリシジミが舞っていた。ウメの木の周囲を悠然と旋回していたオオミスジが目に浮かんだ。
 多少ショックだった。今はもう無いあの山道、あのクヌギ林など、小さな自然を犠牲にして今の景色や便利さがあると思うと、複雑な気持ちであった。
 ICを下りて上田の街へ下ると、そこにも当時の面影は見つけようとしても見つからなかった。一昔前に大学生活を送った上田の街並みが懐かしく思い出された。変わらないものは、周囲の山々だった。太郎山には逆さ霧がかかっていた。冬の時期、どんなに上空が晴れ上がっていても、山頂から上田の街の方へ霧が滝のように流れていた。学生のころ、逆さ霧だと教えられた。あれから、まぼろしのごとく過ぎ去った40年の歳月がよぎった。静かに自分を見つめながら、昔と同じ山容を写真に納めた。
 別所温泉では外湯に入った。確かに学生のころ入浴したことがあったが、全く記憶がない。脇に聳える獨鈷山は私のヒメギフチョウ観察のフィールドだったので鮮明に覚えている。北向観音、愛染カツラの大木にかすかに記憶が蘇った。思い出は限りなかった。
《北向観音(別所温泉)》
《獨鈷山》

 別所温泉から八ヶ岳のホテルをめざしたが、佐久から小海線沿いのコースを取ると思っていたが、バスはなんと懐かしの松本市へ向かった。松本は妻の里、思い出も限りない。義姉の住まいのすぐ脇を通り、中央高速道に乗った。途中の夕闇に包まれた諏訪湖も美しかった。諏訪湖では、学生のころ臨湖試験場での環境水質調査をしたことがある。ボートで湖水へ繰り出し、山の仰角で湖畔からの距離を求めながら、湖水のサンプリングをした記憶がある。
 使われずにいた引き出しから、次々と、突然に呼び起こされる記憶。閉められたままの情報の痕跡がほとんどであろうが、なんと不思議なものか。
 降り始めた雨の中、八ヶ岳山麓の1日目の宿に入った。

バスツアー紀行(3の3)へ続く


バスツアー紀行(3の1)

2006-02-21 | 旅行
            【懐かしい浅間連山】
 2/15~2/17(2泊3日)、バスツアー「別所温泉と八ヶ岳・富士・房総花めぐり」に妻と2人で参加した。
以下に、簡単に紀行をまとめる。

第1日 (2/15) 会津~郡山~前橋~小諸
 真冬の会津を離れて関東へ、畑には新しい緑が萌え陽光うらら、那須の連山がかすんで見えた。木々の広げる枝に、街の空気に穏やかな春が感じられた。
 東北自動車道を南下、佐野ICから前橋へ。郡山を過ぎてからの全行程中に雪はなかった。関越道に入り、釜飯で有名な横川SAから妙義山を仰ぎ、直線の碓氷トンネルを抜けると信州、急に視野が広がり雄大な浅間山が見えてきた。
 もう30数年も昔、学生時代に信濃追分から浅間をスケッチしたことがある。その絵の余白には、
 「絵の具を溶くに水なし、畑の吹きだまりの輝ける残雪に吐息す。
  雪水に溶けた絵の具は丁度氷ミルクの如し。
  爽やかな寒中、大自然に抱かれしばし佇む。
  今、ひとりぼっちで自然と対話する喜びがこみ上げる。
  おまえは何をしてきたのだ。・・・・山々の雄姿が呼びかける。」 とある。
車窓の浅間連山をながめながら、この信州の山懐に抱かれ過ごした、青春の6年間の懐かしい思いが込み上げてきた。
 カラマツ林はまだ冬のままで、浅間の山肌に細い雪の襞が白く流れていた。
 高速道は懐かしい小諸から上田へ。小諸の懐古園に何度か藤村の足跡を訪ねたことを思い出した。
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藤村ゆかりの土地を訪ねたい

 私は藤村が好きだ。あの七五調の心動かされる詩歌がいつもそばにあった。
 藤村との出会いは高校の教科書であった。
「ついに新しき詩歌のときは来たりぬ・・・」
「まだあげ初めし前髪の・・・」
「小諸なる古城のほとり雲白く遊子悲しむ・・・」
 思えば藤村は、我が人生に影響を与えた作家の一人だ。
 この春、母の米寿にお祝いで大磯に行った折りのこと。朝散歩に出ると、旧島崎藤村邸の標識が目についた。それは全くの偶然だった。藤村とこの地がどういう関わりがあるのだろうか。晩年、未完の「東方の門」を執筆した草屋が静かなたたずまいで残されていた。これを機に、改めて馬籠、仙台、小諸、東京、大磯を結ぶ彼の生涯をたどってみたいと思った。
 先日は三十年ぶりに小諸の記念館を訪ねた。これらゆかりの地を訪ね日々の思いに接しながらまた一年が暮れようとしている。     (2001.12)
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《バスツアー紀行(3の2)に続く》