エッセイ  - 麗しの磐梯 -

「心豊かな日々」をテーマに、エッセイやスケッチを楽しみ、こころ穏やかに生活したい。

神々の消えた土地

2014-12-22 | 文芸

    

  いつまでも平和でありたい。
 
大好きな文才・北杜夫の作品のほとんどが、いつしか我が蔵書となった。

先日図書館で、読まないでいた彼の著作「神々の消えた土地」を見つけた。

ぺージをめくると、信州、松高、美ヶ原、乗念・・・、「白きたおやかな峰」や「少年」「幽霊」などを連想し、借りてきた。

一気に読了した。

 その「あとがき」に、北が大学2年23歳のとき、創作ノートに半分書いておいたものを64歳の時に完成させた、幻の処女作品とわかった。

 また、「戦争を知らぬ若い人に読んで頂きたいと密かに念じている。戦争の悲惨さは、いくら戦争の記録を読んでもテレビを見ても、

 実際に体験しないとなかなか分からないものだからである。」ともあった。

 随所に「戦争は錯乱と狂気を産むものだ。」とあり、あらためて戦争の悲惨さを考えさせられた。

 二度と戦争は起こしてはならない。

 学生の頃の軍需工場での労働、そして敵機の空襲にさらされた具体的な戦争体験が綴られ、

 そんな苦しい中にも彼らが純粋に生きたセピア色の青春を想像しながら、我が青春時代に重ねた。
 

 松高生が歌う懐かしい思誠寮寮歌をたどりながら声を出して歌った。
     春寂寥の洛陽に 昔を偲ぶ唐人の
   傷める心今日は我 小さき胸に懐きつつ
   木の花蔭にさすらえば あわれ悲し逝く春の
   一片毎に散る涙

 神々が確かに生き、息づき、そこに住んでいたはずの信州の大自然の中から、神々が消えた。

 愛をはぐくんだ二人の幸せな山登りから一転、甲府大空爆で彼女は死んだ。

 二人の育んだ清純な牧歌的な愛は失われた。涙が込み上げた。

 今世界中の多くで、神々の消えつつある土地がある現実を思った。


・・・〈本の解説に〉・・・
    あの頃、戦争は日と共に、錯乱と惰性と狂気とを産んでいた。太平洋戦争末期、死と隣り合わせの日々のなかで、少年は早熟で愛らしい少女と出会う。ギリシャ神話に惹かれる少女から『ダフニスとクロエー』を贈られた少年は、その神話的世界をなぞるように、清純で牧歌的な愛をはぐくむ。二人は信州の大自然のなかで結ばれたが…。幻の処女作を四十年ぶりに完成した瑞々しい長編。

 


「星々の悲しみ」

2014-08-26 | 文芸

 

  初めて宮本輝を読んだのは「草原の椅子」だった。ブログ仲間のマーヤンさんから紹介されアマゾンから取り寄せた。いつか、この本で生き方を考え直した。
 その後、テレビ番組で、「 宮本輝「流転の歳月」」を視聴し、また新しい生き方を考えさせられた。

 しとしと梅雨のように降る雨の一日、何気なく側らの本棚から手にした一冊は宮本輝の「星々の悲しさ」、何度も読んだ短編だが、また、さわやかに読み終え、

 忘れていた思いが湧いてきた。

拙ブログで作者名「宮本輝」で検索すると3つヒットした。
 ○  青春の1ページ 2008-01-18
       http://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/9a4082d6cec31c3f6df597e21b93f693
 ○  宮本輝 流転の歳月 2008-01-12
       http://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/2a347aed9c6dcd39382f2dca9fb664fd
 ○ 生き方を考え直した1冊の本 2006-07-21
         http://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/9ef3590fbe76222c9eb7bc494070a60c
   
   読み返してみると、いずれにも、そのときどきに新しい生き方を考えたときがあった。
  今回も同じだ。ときどき、惰性に流される日々を反省するが、そんなひとときとなった。


束松峠の詩碑

2014-04-25 | 文芸

 昨年秋に束松峠に秋月悌次郎の「北越潜行の詩」の詩碑が建立された。その新聞報道以来、雪解けが待ち遠しかった。

 初めて束松峠へ登った。49線を柳津のトンネルを過ぎて藤大橋を渡る。間もなく右、高郷方面へ向かって間もなく突き当たりを左へ。

 天屋へはいると間もなく「福島県指定天然記念物 天屋の束松」の案内板があった。

 「会津坂下町大字束松字天屋に、束松と呼ばれる特殊な樹形のアカマツが生育することが昔から知られ、束松という地名もこれに由来している。・・・・・
  このような樹形はおそらく遺伝的なもので、成長するにしたがって独特の樹形を示すようになったものと思われる。」と。

  ふもとに車を置き、約1時ほど旧越後街道の峠道を上った。

   残っている「ひこ束松」をみたが、なるほど見事な松だった。

 束松峠の頂上のは江戸時代に、また峠の途中に「養生のかいなく枯れたので平成10年6月空しく伐採」と看板があった。

    

   

所々に伐採した丸太がビニールにくるまれていた。

「松食い虫(マツノザイセンチュウ)とカシノナガキクイムシのくん蒸駆除作業中」と張り紙があった。大変な問題だ。

   

   峠道は戊辰のころとそうは変わらないだろう。秋月悌次郎やあの山川健次郎も歩んだいにしえのこの峠道を踏みしめながら進んだ。

所々にコブシの花が風に揺れていた。峠の道にはショウジョウバカマが咲いていた。イワカガミはつぼみが膨らんでいた。

木々の芽吹きを撮りながら登った。

途中、オオルリに会った。梢に止まり盛んにさえずっていた。逆光で美しいルリ色は見にくかったが、真っ黒いくちばしが美しいさえずりを響かせてくれた。

峠近くには未だ残雪が道をふさいでいた。  

   

 

  

  

   オオルリ 

  アカネスミレ?  オオイワカガミ


 
 峠の頂上に、歌碑が建っていた。傘下の片門、丘の向こうに坂下、若松の街が見える。

   

 遙かに霞む磐梯山が聳え、木々の間から西会津の山並みも見えた。悌次郎の思いを偲んだ。

悌次郎は戊辰戦争の敗戦後、会津藩の善処と藩の若者の教育を懇願するため、旧友であった長州藩士奥平謙輔がいた越後にひそかに会いに行った。

その帰り道に雪の束松峠の頂上から故郷を眺め、藩の行く末を案じて「北越潜行の詩」を詠んだとされる。

 案内板   秋月も眺めた

「行くに輿なく帰るに家なし」 ・・・・ 「愁い胸臆に満ちて涙巾を沾す」
案内板の漢詩を声を出して読んだ。

  峠には登りはじめには山王神社の鳥居や峠の六地蔵、軽石へ抜ける束松洞門など昔の遺跡があり、それぞれ地元高寺地区の保存会を中心に道も整備され、

案内板で詳しく説明されていて感心した。

 六地蔵   洞門入口

 帰りは片門から坂下へ抜けた。あちこちから飯豊の山並み、麗しの磐梯を眺めながら下道を帰宅した。 

ようやく思いが叶った束松峠行きだった。   (2014.4.24)

    

(参)マイブログ 秋月悌次郎   http://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/s/%BD%A9%B7%EE%C4%F0%BC%A1%CF%BA


久々に良寛を思う

2014-03-22 | 文芸

 

 また、月に一度の診察日が巡ってきた。病院まで約2㎞ばかりだが、冷たい北風の中を歩いた。

最近は時の流れがいよいよ速く感じら、一月は瞬く間に過ぎた。

 いつも通院に携帯する本、今日は本棚に自然に手が伸びた中野孝次氏の「生きる知恵」だった。

そこで、何度も読む良寛の座右の銘、久しく忘れていた良寛の自画像のような詩「生涯身を立つるに懶く」を静かに味わった。

********************************
生涯懶立身 騰々任天眞 (生涯身を立つるに懶く騰々として天眞に任す)
嚢中三升米 爐邊一束薪
(嚢中三升の米 爐邊一束の薪)
誰問迷悟跡 何知名利塵
(誰か問わん迷悟の跡 何ぞ知らん名利の塵)
夜雨草庵裡 雙脚等間伸
(夜雨草庵の裡 雙脚等間に伸ばす)
********************************

尊敬し、ときどき救われてきた中野孝次氏は、この詩には人間の幸福についての重大な謎が込められていると述べている。

この詩、いつも概ねこうありたいと思う我が願いだが、なかなかそうはいかない。

確かに、本当の幸せは欲がなく、何も持たいところに自分を置かなければわからないのだと思う。

 「嚢中三升の米、炉辺一束の薪」の慎ましい良寛の生き方に思いをはせた。

現代人はこの戒めを忘れて、いつまでも物欲に固執しこころの世界に逆行しているような気がしてならない。

もう一度、足を知る生き方をと反省している。

 

 (*)拙ブログの良寛 http://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/s/%CE%C9%B4%B2

 


「北越潜行の詩」の詩碑が 束松峠に建立された

2014-01-30 | 文芸

 最近、秋月悌次郎の「北越潜行の詩」の詩碑が、昨秋、会津坂下町の束松峠に建立されたことを知った。思えば、この詩は束松峠にこそふさわしいのだろう。
 お城に行くときには、いつも三ノ丸に建つ北越潜行の詩碑に立ち寄り、この詩に切なく胸を打たれていた。

  【 三の丸の詩碑 】

  会津藩士秋月悌二郎の波乱の生涯を描いた中村彰彦著「落花は枝に還らずとも」を再読した。

 「一度枝を離れた落花は、その枝に還って咲くことは二度とできない。しかし、来年咲く花の種になることはできる。」

  「会津滅藩に立ち会い、亡国の遺臣と化した悌次郎は、自身を落花になぞらえることにより、逆風の時代になおかつ堪えて生きる覚悟を初めてあきらかにしたのである。」とある。

 正にこの詩に、堪えて生きる覚悟を見る思いだ。

 悌次郎は、謹慎中に僧侶に変装してひそかに抜け出し、新潟で長州藩士奥平謙輔に会い藩の寛容な処分を訴えた。

 その帰途束松峠に立ち、憂い悩む気持ちを『北越潜行』の七言絶句に残した。

 峠は今深い雪に覆われているだろう。

 雪が消えたら一刻も早く峠にたち、詩碑に佇み、若松方面を眺めてみたい。

 悌次郎を偲び、今の世に何が必要なのかを考えてみたい。
   
 

 有故潜行北越帰途所得 会津 秋月胤永
 --------------------------------
 行無輿兮帰無家 行くに輿無く 帰るに家無し
 國破孤城乱雀鴉 國破れて 孤城雀鴉乱る
 治不奏功戦無略 治は功を奏せず 戦は略無し
 微臣有罪復何嗟 微臣罪あり 復た何をか嗟かん
 聞説天皇元聖明 聞くならく 天皇元より聖明
 我公貫日発至誠 我公貫日至誠に発す
 恩賜赦書応非遠 恩賜の赦書は 応に遠きに非ざるべし
 幾度額手望京城 幾度か手を額にして京城を望む
 思之思之夕達晨 之を思い之を思うて 夕晨に達す
 憂満胸臆涙沾巾 憂は胸臆に満ちて 涙は巾を沾す
 風淅瀝兮雲惨澹 風は淅瀝として 雲は惨澹たり
 何地置君又置親 何れの地に君を置き又親を置かん
 --------------------------------

   拙ブログに書いた     北越潜行の詩(2006-02-13 )  神のような人 秋月悌次郎(2010-4-15)】


 


精一杯に生きる鳥たち、虫たち

2014-01-28 | 文芸

                                      【ジョウビタキ ♂】 (ネットからお借りしました。)

  先日フォレストパークでの雪の中の研修で、弦間一郎所長の「冬の生きものを調べる」の講義を聴いた。
 まず、テーマ「野外生物観察」では、冬という季節が「生きることの大切さ」や「生命の神秘」などを知りやすい季節であること、落葉や雪上など、森林の中で生きものが観察しやすい季節であることを再認識した。
 その中で、バードウオッチング「心を観る、感じる野鳥」は素晴らしい話だった。

 資料に本人が朗読する串田孫一の詩があった。私にはしばらく忘れていた懐かしい名前だった。それは、1965年FM放送番組「音楽の絵本」の1500回記念のテープだった。
 
”今朝も小鳥が私を見にやってきた
 一体何をしているのだろう
 ・・・・・・・・・・・・
 私は戸口の小鳥を見返す
 山椒の実よりも黒い眼が
 私の疲れた赤い眼と重なる
 ・・・・・・・・・・・・
 木の実を食べては空を見上げ
 焦茶色の胸をきりっと張って
 ・・・・・・・・・・・・
 柿の木から飛んで行った
 枝の柿はまだかすかに揺れている
  ・・・・・・・・・・・         ”
ここで、講師の質問は 「ここに登場する野鳥は?」何という種類だろうかだった。
形態は?習性は?・・・、野鳥についてあまり詳しくはない小生だが、詩の中の情報から推測するに、小鳥はジョウビタキ!と思われた。
 あの講義から10日が経った。気になって隣の短大図書館で串田孫一随筆集の「遠い鐘の音」を借りてきた。あったあった、「小鳥と女王様」と言う詩を見つけた。あの資料の詩だった。
 書き出しには「今朝も常鶲が私を見にやって来た」と、解答があった。
 資料の小鳥は常鶲、正解だった。
「山椒の実より黒い眼、焦茶色の胸、胸をきりっと張る、柿の枝が微かに揺れている・・・」一つ一つ、串田の正確な観察描写をあらためて思った。

 それにしても、この講義の組み立てが素晴らしいと思った。野鳥について総括的な解説はわかりやすく、頭の中がすっきり整理された。そして、「心を観る」の意義をあらためて考えさせられた。

 いつも小さな虫たちの心を思っていた。
厳寒の雪の庭にリンゴの皮を置いている。三々五々訪れる小鳥たちは、何を考えているのだろうか。きっと、ときどきこの庭に来ようと思っているに違いない。
いろいろな動物や小さい虫たちには、本能しかないとは思いたくない。人間に負けない優しい心があると信じている。


手を携えて 風光を撫す

2013-10-21 | 文芸

 

  久しぶりに武くんと磐梯町の慧日寺資料館を訪ねた。磐梯山を中心とした山岳信仰や数年前から興味を抱いている徳一大師の足跡に、あらためて往時をふりかえることが出来た。
  展示室の一隅に一枚の色紙が飾られている。それは、興福寺の多川俊英貫首の揮毫による【携手撫風光】の書だ。慧日寺は、若き日に奈良で修行を重ねた法相宗徳一の開祖で、興福寺は法相宗大本山である。書の解説文には、「明治の文豪・森鴎外の漢詩の一句で、〈いっしょに自然の景色を楽しむ〉の意」とあった。日々ひとり里山を巡り風光明媚な自然を撫しているが、この「手を携える」とは、自然の一員たる人間が、と捉えたい。
 資料館の庭には磐梯山麓の龍ヶ沢湧水が引水されていて、その流れを利用し池を配した庭のたたずまいが素晴らしい。

 

隣の慧日寺の金堂と中門の間に石敷き広場が復元整備されていた。いつも裏から眺める徳一廟に参った。

     徳一廟

今年の紅葉は少し遅いようだが、ほどなく風や光が最も美しく感じられる季節を迎える。あらためて、自然の風光の美しさを堪能したいと思っている。

 

 


顕夢明恵を思う

2013-08-31 | 文芸

  

  座右の「この世この生」 を開いた。

 『顕夢明恵』の書き出しに「西行を地上一寸とすれば明恵は地上一尺である。良寛の足は地に着いている。」とある。

 また、「明恵が語りにくいのは、彼が路を行くときもその足は地上一尺を踏んでいるからだ。」と。

 しばらく、〈地上一尺〉を考えている。


 同書の、西行、良寛、道元については、方々に傍線施され日々の心の支えを求めていたようだが、明恵については読んだ形跡なく、きれいなままだった。

 明恵上人の人となりの一端に、徒然草144段を取り上げている。
 《 栂尾の上人、道を過ぎ給ひけるに、河にて馬洗ふ男、「あしあし」と言ひければ、上人立ち止りて、「あな尊や。宿執開発の人かな。阿字阿字と唱ふるぞや。如何なる人の御馬ぞ。余りに尊く覚ゆるは」と尋ね給ひければ、「府生殿の御馬に候ふ」と答へけり。「こはめでたき事かな。阿字本不生にこそあンなれ。うれしき結縁をもしつるかな」とて、感涙を拭はれけるとぞ。》
  上田三四二の記述には、

 「「足」と「阿字」と言う結びつくはずのない言葉が発音を同じくするだけの理由から結びつき、すり替えられ、そのようにすり替えが起こってしまった上は、俗世のいじましい官職の名「符生」は、頓悟の言葉たる一切諸法不生不滅の「不生」でなければならなかった。」と。

 正に、地に這いつくばって生きる者と、地上一尺にある者との間に生じた齟齬、俗と聖の行き違いの笑い話だ。

 でも、栂尾の上人には、見るもの聞くものすべてが信仰と結びついているからだろう。
 兼好のユーモアと尊敬が渾然としている話だ。

 最近の耳の衰えに、妻からは補聴器・・・などと、

 老いを感じて、同じようなやりとりがあったな~と、一人にやにやしている。

 


「ウルシ林 見学会」に参加

2013-08-08 | 文芸

                           
  午前中、Tさんのお誘いを受けて申し込んでいた「ウルシ林見学会」へ参加した。 今回は第1回だそうだ。

 市では過去3ヵ年、県立博物館を中心に、「漆」をテーマに「会津・漆の芸術祭」を実施した。

 今年はそのコンセプトを引き継ぎ「あいづまちなかアートプロジェクト」を展開、この見学会はその連携イベント。

 市役所駐車場、集合時間30分前に一番乗りだった。参加者は13名、バスに乗り込み一路、金堀地区の市のウルシ林へ向かった。

 現地に着くと、まず8連発のクマよけの花火を打ち上げ、林へ入る。

 見学会の前半は、昨年植えたウルシの苗木を守るための下草刈り、大鎌、ナタを持ち、ウルシ林に展開した。

 

 草刈りをはじめると間もなく、ギラギラ太陽が照りつけた。汗だくで、黙々と下草を刈った。

育ちの良い木もあれば枯れているものもあり、環境の違いによる運不運、人間社会と同じだ・・・などと考えながら。

 心地よい風が吹く木陰で小休止、息が切れる。年齢、健康、体力を思った。時折オニヤンマが行き過ぎた。突然、オオムラサキの雄姿を見た。

茂みをかき分け舞い降りたコナラの樹液に近づくと、オオムラサキが3頭樹液を吸っていた。カブトムシも。

手持ちの古いデジカメで我慢、近づいて数枚を撮った。

 もう一踏ん張り、撮影もそこそこに下草刈りへ戻った。

  

 

  市のウルシ林は9ha、約40年前に15000本植えたウルシが現在は約700本、ウルシを掻き取り、毎年40本が伐採されているという。

小さい苗木は掻き取れるまでには15,6年かかる。また、1本のウルシの木から約200gの生ウルシが取れる。

ウルシの植林、この見学会も伝統文化を守る取り組みだろう。後継者も少なく、前途多難な様子がわかる。

後半はウルシの掻き取り作業を見学・少しの体験も。 参加者は、ウルシを扱う漆器関連の方がほとんどのようだった。

  講師は磐梯町在住でウルシの作品を手がけている村上さん。ウルシ掻き取りの7つ道具を腰に巻き、丁寧に実演・説明をしてくださった。

  

 

 まず、皮むき鎌で樹皮の表面を削りなめらかにする。次に、掻き鎌で溝をつけ、掻き鎌についている「目刺し」という刃物で溝に傷を付ける。

すると、漆が滲み出てくるので、掻きへらで掻き取り、漆つぼに入れる。

    

この作業、中4日開けてウルシの木を休ませ、また同じ作業を繰り返す。ウルシ掻きは根気の要る作業だ。

暑い夏も、黙々と続けているという。機械ロボットでは出来ないのか、などと考えたが・・・無理か。

 ウルシ掻取り方法は、現在は6月中旬から11月頃まで漆の木に傷をつけ、20回掻いておしまい、後は伐採している。もったいないと思った。

その後切り倒した株からひこばえした新しい芽を育てることになる。種まき苗より成長が早く、約13年位で生木になる。

こうした殺掻(ころしがき)法の他に、木を殺さないように養生しながら毎年漆を取る養生掻(ようじょうが)がある。

 
【 太いウルシの切り株や根からひこばえが育っている】

 

 先日会津大学での観察会(8/4)で第7木を知った。拙ブログ【会津第七木・要七木2013-08-05】

 会津藩主保科正之が山林資源と藩用材の確保を目的に「会津事始(慶安2年(1645))」を定め、その第一にウルシがあった。

 下刈り1時間、見学研修1時間。充実した半日を過ごした。

 今後も地域の大切な伝統文化を守っていく必要を感じている。この見学会を手始めに、ウルシについてもっと知りたいと思っている。(2013.8.7)

 


会津第七木・要七木

2013-08-05 | 文芸

 

 昨日の会津大学での自然観察会で、池のまわりに「会津第七木・要七木の由来」説明板があり、それらの木々が展示植栽されていることを知った。

 池にはトンボの観察に何度も訪れていたのに、それら植栽に目が向かなかった。

 江戸時代初期に会津藩主保科正之(1611-72)が山林資源と藩用材の確保を目的に
「会津事始(慶安2年(1645))」の中に「七期八草竹林御定法之事」を定めた。

 案内板には、その「七期八草竹林御定法之事」が載っていた。
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   「七期八草竹林御定法之事」
      覚
一、 漆木・桑・明桧・杉・槻・松・モチノ木以上第七木と称し下知なく猥に伐べからず。
一、 カヤ・胡桃・朴木(ほうのき)・桐木・栗・榛(はんのき)・梅以上要七木と称し四民これを設置し子孫に伝うべく事。
一、 牡丹・芍薬(しゃくやく)・蓮・桔梗・蕨・山葵・独活・砥草以上八草と称し人家用足しの者無用に捨てるべからず。  
一、 李・梨・柿・竹以上四壁竹木と称し、裏地屋敷成りとも長ずべし。
  右条に四民永代になし要物仰せ出され処念を入れ堅く相守るべく者也。
  慶安二年十二月
  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
 会津藩が 「山林保護」「殖産効果」「災害等による建築材、治水材の確保」等のためとして定めた理念に感銘を受けた。

 実に400年も前の、正に自然保護の思想でもある。

  そしてこれらは現在も会津地域の山林保護に引き継がれていると思う。
  7日に体験する「ウルシ林見学会」もその一つでもあるのだろう。


 


天才歌人 啄木の人生

2013-05-25 | 文芸

久々に憧れの歌人啄木の人生を見つめた。
昨夜のNHKTV「そして、歌が溢れた~松本幸四郎×石川啄木~」を視聴した。
(見過ごしていた5月6日(月)NHKBSプレミアムの再放送)
  ---番組解説から---
   啄木の波乱の半生を、幸四郎さんは50年前に舞台『悲しき玩具』で演じた。破滅的な啄木の生き様と格闘した当時から今に至るまで、幸四郎さんにはずっと抱えていた疑問がある。なぜ、絶望的な生活の中で、啄木は瑞々しい短歌を紡ぎ出せたのか。その答えを見つけるため、幸四郎さんは啄木と向き合う旅に出る。

 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
はからずも啄木のわずか27年の人生を振り返りつつ、青春のこころに戻り忘れていた感動に浸った。

    書棚の蔵書 「新潮日本文学アルバム 石川啄木」よりまとめてみた。

渋民尋常小学校の階段、教室、黒板が目に浮かぶ。
 ”そのかみの神童の名よかなしさよふるさとに来て泣くはそのこと
  北上の岸辺に建つ文学碑
 ”やはらかに柳あをめる北上の岸辺目に見ゆ泣けとごとくに
盛岡へ堀合節子との初恋、退学、上京    【明治35年 17歳】
 ” 師も友も知らで責めにき謎に似るわが学業のおこたりの因
○ 「明星」(啄木に影響を与えた与謝野鉄幹が主宰)に掲載された一首。
 ” 血に染めし歌をわが世のなごりにてさすらいここに野にさけぶ秋
渋民へ帰郷    【明治36年 18歳】
  結婚 代用教員  【明治38年 20歳】
   詩集「あこがれ」刊行
北海道へ渡る    【明治40年 22歳】
  ”船に酔ひてやさしくなれるいもうとの眼見ゆ津軽の海を思へば
   函館:函館日々新聞 遊軍記者
  ” 潮かをる北の浜辺の砂山のかの浜薔薇よ今年も咲けるや
 ” 函館の青柳町こそかなしけれ友の恋歌矢ぐるまの花
  札幌:北門新報社校正係 
  ” アカシヤの街?(なみき)にポプラに秋の風吹くがかなしと日記に残れり
  小樽:小樽日報社       
  小樽へ旅行したとき、高台の小樽公園に啄木の歌碑を訪ねたことがあった。
 ” かなしきは小樽の町よ歌ふことなき人々の声の荒さよ
      *事務長小林寅吉と喧嘩し退社
     小林は会津高田出身 法用寺に歌碑  (参)拙ブログ「雪の中の 啄木歌碑」(2008-02-12 )
                                           http://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/21638bf167d5a30168f39fdea59c15ca

 釧路 :釧路新聞
  ” さいはての駅に下り立ち雪あかりさびしき町にあゆみ入りにき
  ” しらしらと氷かがやき 千鳥なく 釧路の海の冬の月かな 
  ” 子を負いて雪の吹き入る停車場にわれ見送りし妻の眉かな

上京 朝日新聞校正係【明治41~明治43   24 25歳】
   明43年  詩集「一握の砂」刊行
  明治44年  慢性腹膜炎で入院
  ” 水嚢の下より眼を光らせて寝むられぬ夜は人をにくめり
   明治45年  4/13永眠  27歳   病名:肺結核
        ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
   
    啄木のはかない生涯を見つめた。
  かつてゆかりの地を訪ねた。
   盛岡、不来方の城跡へは3度、渋民へも、学生時代とその後1度訪ねた。
  ” 不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心
   ” 己が名を ほのかに呼びて涙せし 十四の春に かへる術なし
   〈十四の春〉は教室で生徒に何度となく語ったこころだ。

 不思議な夜を迎える あふれ出た歌はこころの奥底からほとばしり出る。
 天才である。彼は平易な言葉で感動の歌を苦もなく歌う。
  切ない歌人・啄木の胸中が甦った。


自然のドラマを 庭で楽しみたい

2013-05-16 | 文芸

 

 「鮮やかな緑よ 明るい緑よ・・・香る香る若葉が香る」は文部省唱歌『若葉』、口ずさむこの歌は初夏にぴったりだ。庭を巡ると、確かに若葉が香ってきた。

 キリシマツツジや、カリンが満開、勢力を広めたスズランやマイズルソウは膨らんだつぼみが明日にも弾けそうだ。

   

 また、芽吹きが遅いサルスベリがようやく紅く萌えて、見上げるキリの木も拳を開いた。

 

 鮮やかさは若葉だけでなく、庭一面に咲くオオアラセイトウの濃い紫色と、ヤエヤマブキの黄色のコントラストがあまりに美しく、しばし見とれた。

 そのオオアラセイトウにスジグロシロチョウが舞い、産卵を繰り返していた。

  

 そう言えば、毎日芽吹きを心待ちにしていたウマノスズクサがようやく細い芽を伸ばした。嬉しかった。

 このウマノスズクサを食草とするジャコウアゲハの成長を今年も観察できるからだ。

 ありがたい緑の自然に感謝しながら、庭にすばらしいドラマを沢山見たいと思っている。            

 

   

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ゆく春を惜しむ

2013-05-01 | 文芸

                          

サクラもいつしか盛りを過ぎ、ひとひらひとひら散り始めている。
この時期には、散りゆく花びらを眺めて、何とも言えぬ思いに浸ってしまう。

ゆく春を惜しみつつ口ずさむ詩がある。
諳んじた達治の詩と、青春の寮歌を声に出して詠う

◎「甃のうへ」         <測量船より>
  あはれ花びらながれ
 をみなごに花びらながれ
 をみなごしめやかに語らひあゆみ
 うららかの跫音空にながれ
 をりふしに瞳をあげて
 翳りなきみ寺の春をすぎゆくなり
 み寺の甍みどりにうるほひ
 廂々に
 風鐸のすがたしづかなれば
 ひとりなる
 わが身の影をあゆまする甃のうへ

 中学だったか高校だったか、暗誦させられた覚えがある。
春の日に静かなお寺の境内を歩くさわやかなイメージに共感した覚えがある。
後年、サクラの花びらが風に流れて散る光景に、いつもこの詩が浮かび呟いてきた。
 流れた花びらは、あはれ青春の流れだった。

 ◎「春寂寥」       <信大・思誠寮寮歌>
 これは誰もいない桜の木の下で、ゆく春を惜しみながら玲瓏と詠う
 感動の歌。これまた、何度か傷める心を抱いた我が青春の歌だった。

春寂寥(せきりょう)の 洛陽に
昔を偲ぶ 唐人(からびと)の
傷(いた)める心 今日は我
小さき胸に 懐(いだ)きつつ
木(こ)の花蔭に さすらえば
あわれ悲し 逝(ゆ)く春の
一片(ひとひら)毎に 落(ち)る涙


【 春寂寥 】
     http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/harusekiryou.html 

 近くの神社のサクラを見に出た。お気に入りのヤエベニシダレが咲き始めた。

花散るや八幡の杜のベニシダレ

 

 


いつも一番に咲く神社のソメイヨシノは散りはじめた。我が家のヤマザクラやオオシマザクラもそろそろ散り始めだ。

このところ実の付けが悪かったサクランボの佐藤錦は満開だ。

   オオシマザクラ サクランボ

 

今年のサクラ、厳しい冬だったわりには例年より早く咲きだしたが、このところ気温が低く長く咲いてくれている。

 ほどなく短い春が行って 初夏へと時が流れて行く。

 

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「徳一を学ぶ」から「徳一に学ぶ」へ

2013-03-23 | 文芸

 

 湯川村公民館に《徳一菩薩を語る特別講演会》を聴きに行った。

講師は薬師寺の長臈 松久保秀胤氏、演題は『徳一(徳溢)菩薩は大悲闡堤菩薩』。

松久保長臈は唯識の第一人者、ご著書の「唯識初歩」からも難しい話かと思いつつも、先月、蓼科の徳一さんからこの講演会の案内をいただいていたこともあり、

また松久保長臈の人となりに触れてみたい思いもあり参加した。

 


  今日の話の内容は、
1.出自 2.僧歴 3.東国入国の時期 4.生涯の行歴 5.徳一菩薩の教相と修行6.徳一菩薩の界繋  7.徳一の和歌

 レジュメの難解な仏教用語で理解できないところもあったが、かみ砕いての丁寧な、わかりやすい徳一像を話していただいたと思う。

(メモから)=====================================
   ● こんないなかになぜ来たのか。ここに、徳一の考え方の中心がある。
   ● この地で、どんな気持ちで、どんな生活をしていたのか。
      仏道の三学(戒行、定行、慧行)に徹する生活だった。
              ・殺生をしない   最澄は徳一を「麁祖食者」と誹謗
       ・磐梯修験は大きな業績 
       ・唯識: 認識→価値観が決まる 今日ほど求められているときはない。
   ● 徳一の仏性論     断善根闡堤ではない、大悲闡堤
        生きるものすべてが菩薩になるまでは自分はならないと宣言
   ●  徳一の短歌を知る
    「縁あらば吾また来む世は磐梯(イワハシ)の山のふもとの清水の寺」
                    (清水の寺は慧日寺の最初の寺名)
         生涯この地を清らかにと願った〈徳一の心〉をしみじみと偲んだ。
   ●  人間のあるべき姿を示した徳一
   ●  大天災に精神復興でありたい。    
   ● 欲界穢土だけれど、私が清らかなら、まわりもすべてが清らかと思う。
           ======================================

 蓼科の徳一さんとは、昨年の早春、勝常寺の徳一座像前での『意味ある偶然の出会い』から始まった。
 ・拙ブログ【「勝常寺、慧日寺に徳一を尋ねる」(2012.4.2)】
           http://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/4a2af7fb6e354c9557b9994b58c6cafc
  その後、手紙での交誼をいただいていたが、きのうは、遠路、この講演を聴きに奥様と孫さんと来られ、拙宅へ寄られた。

我が「徳一」と「信州」との共通項での出会いとなった方、ありがたい、あまりの偶然の出会いだった。

 昨年末には「徳一菩薩シンポジューム(坂下大会)」に出席した。
     ・拙ブログ【「徳一菩薩シンポジューム」(2012.12.23)】
           http://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/a21e068b3a69fb7f16f2fdc30fce2f6d
 そのときの講師は薬師寺の次氏、今回は松久保長臈、かつて修学旅行引率で何度も訪れた薬師寺だったが、当時は法相宗の大本山との認識はなかった。

シンポジュームの主催は「徳一菩薩に学ぶ会」で、仏都会津の祖・徳一菩薩を顕彰し、地域の活性化を目指して設立された。

 今日の主催は「徳一菩薩研学敷衍の会」で、会の目的には、「会津仏教文化の礎を築いた「徳一菩薩」に関する調査・研究し、

その普及、及び伝承することにより、地域の活性化並び会津地方の発展に資する」とある。

 期せずして「徳一」を見つめるグループ2つが組織された意味を考えた。今こそ大切な人物像を掘り下げる意義を思った。

 いずれにしても、1200年前、会津に骨を埋めた徳一菩薩の徳を正しく見つめたいと思っている。

そして、これを機に、難しくて敬遠していた唯識についても、少し前向きに学びたいと思った。

 今(徳一学ぶ)域だろうが、早く(徳一学び)新しいときを見つめていきたいと思っている。

【松久保秀胤長臈氏、徳一さんの奥様と孫娘さんと】

 有意義な一日だった。

 

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今年の絵ろうそくまつり

2013-02-09 | 文芸

 

 家族そろってお城の絵ろうそくまつりに出かけた。

 八重の桜ブームからなのか、あまりの人出に驚いた。おそらく例年の4~50倍の人出と言ってもいいくらいの混雑だった。
 毎年出かけていたが、今まで見たことのない人出だった。

 いつも雪降りの年が多かったが,比較的穏やかな天候に恵まれ、しかも土曜日だからだろうか。

  

  

  

 

  

 また、驚いたことに、普段無料で利用していた博物館やサブグランドの駐車場が、いつの間にか有料になっていた。

 おまけに、サブグランドには食べ物のお店のテントが軒を連ね、今までの「絵ろうそくまつり」とは違っていた。「まつり」だから仕方ないのだろうか。

   

「混みすぎだね」と言ったら、孫に「ジイちゃんは 独り占めしたいの」と言われてしまった。

いつもは静かな幻想的な絵ろうそくまつりの雪景色を堪能していたので、多少興ざめだった。

雑踏の中、しばらく炎を見つめて一人の時間を持った。

 

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