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エッセイ  - 麗しの磐梯 -

「心豊かな日々」をテーマに、エッセイやスケッチを楽しみ、こころ穏やかに生活したい。

「八重の桜」始まる

2013-01-07 | 文芸

 

 NHKの大河ドラマ、会津藩出身の新島八重が主人公の「八重の桜」が始まった。 
 市内の商店街や施設にはポスターが貼られ、ピンクの「八重と会津博」の旗がはためいて八重一色だ。
  県立博物館のエントランスホールでは「輝ける会津女性 新島八重を知ろう!」が始まり、また、12日には旧会津図書館に大河ドラマ館がオープンする。

     

 きのうのテレビ第一回を視聴した。
 冒頭の、アメリカ南北戦争と対比した、世界の激流の中の戊辰の役をとらえた斬新な視点に感心した。
 会津の教えとして「十の掟」がしつこい程出てきたが、会津の歴史や文化が全国に知られることはいい。
 大河ドラマはあまり見なかったが、会津戦争の籠城戦で銃を手に戦った八重、似ても似つかない?女優・綾瀬はるかの前宣伝に期待がかかる。
 毎週見たいと思っている。

 

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「手仕事の日本」

2012-12-13 | 文芸

                                                                     【 ブログ用に、自作の小皿に塩辛を載せてパチリ! 】

 しばらく柳宗悦「手仕事の日本」を読んでいた。
 焼き物に興味を抱いたころから、民藝を知り、益子の浜田庄司参考館や京都の河井次郎記念館を、数年前には東京駒場の日本民藝館訪ねた。
 すっかり遠ざかっていたが、たびたび聞いていた柳宗悦著「手仕事の日本」は、今回初めて手にした。

  昭和15年前後の日本の手仕事の現状を著したものだが、発刊は昭和21年正月とあった。前書きの前の序として、戦争中の厳しい種々の検閲について触れ、幸か不幸かと控えめに訪れた終戦後の平和な時代を書いた。全国各地を旅して各地の伝統的な手仕事を鳥瞰して、その意義を述べている。
 そこには、「手仕事は最も人間的な仕事」と、手が機械と異なる点はそれがいつも直接にこころと繋がれているからとあった。
 会津の品物としては、会津塗り、絵蝋燭、刃物、本郷の焼き物を挙げている。奥会津の雪踏みや雪沓など、手彫りのくり鉢や曲物の手桶屋、葡萄皮でつくった蓑の網も見事な手仕事と述べている。他には、喜多方、熱塩日中の生漉き紙も紹介されているが、いままで知らなかった。
  さまざまな品物の基礎は、自然と歴史であり、人との交わりから生み出されていくと言う。また、後記には、よく知られていない日本の一面、手仕事の意義を知らせたいという著書の目標が、そして、 ①それらの品物をつくった人のこと。②それらの品物の持つ性質。実用的なものがなぜ美しいのか。③それら品物の持つ美しさについて。どうして尊ぶべき美しさなのか。を述べたかったと書く。
 本郷焼きについての考察に、「粗物と蔑まれているものが最も特色のある、また見事なもの」と評して、いわゆる民藝のこころ「用の美」を説いていた。

 (参) 本棚の「河井次郎の宇宙」(於:河井次郎記念館 2000,10.25とある。)を見た。
 鷺珠江氏の文「宇宙の中の河井寛次郎」に(鷺珠江さん:ネットで検索すると、河井寛二郎氏のお孫さん、と知った。)
 《 柳・河井・浜田もよって提唱された「民藝運動」とは、名もない職人の手によって、その土地に根ざして、日などというものを意識せずに作られているものの中にこそ、実は健全な美が宿っており、従って、美とは決して遠い特別なものではなく身近なものである。日常のくらしの中に美はあふれて息づいているのだ》とあった。

 
  美とはほど遠いが、ときどき自作のいろいろな皿、箸置きやぐい飲みを使っている。
 特にお夕飯はゆっくり味わいたいと思っているが、一層料理やお酒がおいしく感じている。陶器は、つくづく食文化と切っても切れない関係にあることを再認識している。

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シンポジウム《新島八重 その時代の女たち》 

2012-12-02 | 文芸

  来年のNHK大河ドラマは『八重の桜』、会津は今「山本八重」一色だ。
 会津大学の講堂で、シンポジウム 《新島八重 その時代の女たち》が開かれた。
 主催は福島民友新聞社、すぐに申し込みをして、入場券が届いた。
 早い昼食を済ませ、天気は良いが気温2℃、防寒して自転車出でかけた。
 午後1時に開演、聴衆は約200人くらいだろうか、ゆったりした気持ちで講演を聴くことができた。


 
基調講演
 直木賞作家・中村彰彦氏の『会津女性の精神史―戦国・江戸・幕末・近代』
 八重は力持ちで、強い女性と言うイメージだが、従来、歴史の中で強い女性か語られなかったという。
 弥生時代のリーダー的な卑弥呼に始まり、源平時代の女武者、たとえば巴御前や越後の板額御前、さらには信州高遠の諏訪はな、江戸時代の武芸に秀でる別式女などを話題に、たくましい、骨太な行動を取る女性を紹介した。
 また、八重が籠城し、最新鋭のスペンサー銃を使った訳や、弟の遺品を着て男装したが、男装の歴史についても触れた。
 この講演の中身は、今月末に発売の雑誌「オール読み物」に書いた内容とのこと。機会があれば読んでみたい。また、話題となった女性についても調べてみたいと思っている。

 ○トークショー『激動の時代を駆け抜けた会津の女性像』を聞いた。
 主席者は中村彰彦氏のほか、漫画家の松尾しよりさん、若松城天守閣学芸員の湯田祥子さん、末廣酒造の新城希子さん。司会は博物館学芸員の渡部綾子さん。
  それぞれの会津との関わり、会津の印象などについて話された。
中村さんは、綱淵謙錠著の「戊辰落日」を読んでいた時に、子供が生まれた。子供を殺めて自害する壮絶な描写に、書かなければと思った。会津人はシャイだ。文化レベルが高いと。会津出身の湯田さんは、会津を離れて初めて歴史の重みを知った。会津の人は頑固だと。
 湯田さんから八重の生涯が話された。
 山本八重さんは88歳でなくなるが、会津にいたのは20年、彼女の会津時代の生活が話された。会津時代が脚光を浴びるが、その後京都での別の人生を歩む。結婚生活は14年で襄に先立たれ、未亡人として40年近く力強く生きた。根底には「ならぬことはならぬ」があり、いろいろな誤解、非難を受けながらも信ずる道を進んだ。襄は「美しい行いをする人」と言った。ハンサム・ウーマンはそこから。
  激動の時代に活躍した女性は何人もいるが、湯田さんは山川捨松について話され、八重とのかかわりも知った。

  中村氏の会津の幕末史の別の視点に興味を持った。
 会津藩の樺太出兵、江戸、三浦半島の警備など、国防の第1線は会津藩との評価が、戊辰戦争につながった。困ったときには会津藩であった。また、会津藩の開城は正しかったと。辛いことだったが、その後の.山川健二郎、柴五郎、松江豊寿などの人物を輩出できた。 そして、会津の幕末史では、保守的と進歩的のせめぎ合いがみられたと。医者も、幕府では漢方医だったが、山本家、山川家は蘭学、たとえば天然痘の種痘をするなど新しい合理的、進歩的な考えだった。

  帰りに、孫に読ませたいと思い、松尾しよりさんのコミック
 【清らかに たかく ~ハンサム・ガール 八重の生き方~ 】を購入、サインを頂いた。

  4時をまわったが、薄暗いグランドサッカーの練習の声が聞こえてきた。すでに葉を落としたポプラ並木の向こうに、厳寒の磐梯が聳えていた。

  

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「あわれ」と「かなし」

2012-10-31 | 文芸

                                      【麗しの磐梯  (赤井から) 2012.10.22撮】

  今朝も大江健三郎さんのインタビュー(ラジオ深夜便4時台)を聞いた。
  誠実な人柄、正直な人だ。難解な文章との思いがあって、これまであまり読まなかった。
 77歳になられる半生に、これまでに影響された人と言葉を語っておられた。
 今回は9月の再放送で、そのときも感銘を受けいろいろ考えさせられた。
 昨日と今日、インタビュー「人生と日本を語る」をメモを取りながら感動して聞いた。
  終わりに、若者に残したいことはと聞かれ、日本人には「あわれ」の感情を持って欲しいと。最近、国語学者大野晋の「古典基礎語辞典」読んで感銘を受け、古典の言葉、「あわれ」と「かなし」のちがいを話された。
 「あわれ」とは、相手の不幸、苦しみを同じ立場で共有できるこころで、それが人間の根本的な本質的モラルだと。そして、その見えないこころが大切だと。
 大江さんの言葉に、彼の平和への思い、強い信念を感じた。
 番組の終わりに、ご長男光さんの作曲した曲が流され、心に響くメロディを目を閉じて聞いた。大江さんの優しさに、切なく「あわれ」な気持ちが湧き感動の涙が流れた。
  自分も残された人生を「優しさ」をテーマにして過ごしたいと思っている。

(この放送は11月12日までパソコンで聞ける。もう一度聞いてみたい。
       http://www.nhk.or.jp/shinyabin/jyoyou.html   )

 

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スケッチ 麗しの磐梯

2012-10-11 | 文芸

           
      目を瞑って描いた麗しの磐梯 そして、佐藤總右の詩
      たまに描きたくなると描く、麗しの磐梯だ。

    印刷屋に勤めるYさんにいただいたいろいろな紙、描く絵はいつも同じ。
    筆も同じ、1、2分で描く。
    いつもの磐梯の空に、ときどきの思いを添える。
  

     こんな絵が、もう100枚程になるか。大きい絵ははばかれるが、小さいスケッチはあちこち配っている。

      自己満足そのものである。

      

 

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松陰の東北遊学紀行

2012-09-28 | 文芸

                                     【 心清水八幡神社 参道に建つ 松陰 「東北遊日記】の碑 】


 また、会津と長州とのかかわりに思いをはせた。
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 「松陰と会津」2010-03-16
    http://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/1470e23a65793593e0cb5b1df414dc0d
 「会津と長州」2010-03-18
    http://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/96f00492bc8ce4409d0970d8d46eb033
  と題して、拙ブログに書いた。
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その考察の始まりは、坂下の心清水八幡への参拝から始まった。神社参道に建つ吉田松陰の「東北遊日記」の碑に気づき、以来、参拝の度に碑文を読んでいた。

 最近、図書館で、滝沢洋之氏の著作になる「吉田松陰の東北旅行」(歴史春秋社刊)を眼にし、借りて一気に読了した。
  著者は、松陰を知る会津人はいるが、松陰が会津を訪ねていることを知る人は少ない。それは会津と長州の怨念により、松陰について記すことがタブー視されていたからと書き、松陰が東北遊紀行で、行きと帰りの2度も会津を訪れていることに注目して、旅の目的や意義を考察している。
(参:遊紀行のコース
 (江戸 → 水戸 → 白河 → 会津若松→ 新潟(出雲崎,佐渡)→ 碇ヶ関→ 弘前→ 竜飛崎 → 青森→ 八戸→ 盛岡→ 仙台→ 米沢→ 会津若松 → 日光→ 館林 → 江戸 )

 読了して、あらためて会津と長州との交流と、その後の不幸な戊辰の戦い、そして現在に至るわだかまりに一つの歴史の流れを思わざるを得なかった。
  著書には、松陰が神社を訪ねた詳細が書かれていた。坂下から片門へ戻り、束松峠を越え越後へでは、「雪甚だ深く行歩甚だ難し」とあり、雪を知らない松陰のこの時期の峠越えがいかに難しかったことか。会津訪問は、兵学の山鹿素行(会津出身)に関心も持ったことや北辺の警備状況の視察が目的だったようだが、何よりも実地に各地の名士を訪ねて話を聞き、得た知識、識見はどんなにか大きかったことだろう。
 本の終わり「会津と長州の接点を知る」の項には、・日新館と明倫館 ・吉田松陰と山鹿素行 ・山川健次郎と奥平謙輔 ・「泰西王侯騎馬図」と前原一誠など、会津と長州の深い関わり、歴史の一端が書かれていて感懐にふけった。また、・旅の終わり にはこれからの長州人との関わりを考える心を読み取ることが出来た。

 会津と長州は、過去の不幸な歴史を乗り越えて、もっと相互に理解し合うことが必要だ。大学生のころ、長州出身の同級生には近づかなかった。戊辰戦争の悲劇の歴史、会津を攻めた薩長土肥の仕打ち、「勝てば官軍」の意識などへのわだかまりがあったと思う。今思えば、馬鹿らしい話だが、150年の時の流れをしても、会津の人たちの被害者意識はなかなか消えないことも事実だ。

 来年のNHKの大河ドラマ「八重の桜」がクランクインした。
過去にとらわれ過ぎることはないが、これを機会に、郷土会津の長い歴史や先人、自然の育んだ会津の精神を見つめなおしてみたいと思っている。
 孫たちを見ながら、新しい時代の会津の心が育たなければならないと思う。

 

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震災と「銀河鉄道の夜」

2012-09-12 | 文芸

  先日、ラジオで、宗教学者 山折哲雄氏の講演「震災と日本人の心」を聞いた。 【拙ブログ 「斎藤茂吉、石川啄木、宮沢賢治」 2012-09-03 | 文芸】

 いつも身近な「茂吉、啄木、賢治」の話だったので、耳をそばだてて聞いた。

 さっそく本棚から、茂吉、啄木、賢治の本を持ち出して、ページをめくった。かつての心躍らせた青春の日々が甦ってきた。

 あらためて豊かなこころに触れながら、講演の大震災との関わりを考えた。

 震災、さらに原発事故に見舞われ、今切ない気持ちで過ごしている被災者を、そして人生を考えた。

 そこで、どうしても賢治の思想を辿ってみたいと思った。

  昨年末、ロジャー・パルバース氏のテレビテキスト「銀河鉄道の夜」を求めた。【100分de名著12月号。】

 その表紙タイトルの脇には、《悲しみを、乗り越えよ》 《ほんとうの幸いとは》 とあった。 【拙ブログ 「賢治をもう一度見つめてみたい」 2011-11-30 | 文芸】

 まずは、賢治の「銀河鉄道の夜」を読み直した。 あらためて人間の生き方について考えさせられた。

 ・「我々はいずこから来て、どこへ行こうとしているのか。」
  ・「人が他人と協調して生きて行くには何が必要か。」
 ・「どうすれば人間は一度しかない人生に意味を持たせることができるのか。」
 ・「自然と共存していくために我々は何を為すべきか」

  かつて引いた傍線に若き日を思いつつ、いままた心をとらえた箇所に傍線を付け加えた。
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  先生はまた云いました。
 「ですからもしもこの天の川がほんとうに川だと考えるなら、その一つ一つの小さな星はみんなその川のそこの砂や砂利の粒にもあたるわけです。またこれを巨きな乳の流れと考えるならもっと天の川とよく似ています。つまりその星はみな、乳のなかにまるで細かにうかんでいる脂油の球にもあたるのです。そんなら何がその川の水にあたるかと云いますと、それは真空という光をある速さで伝えるもので、太陽や地球もやっぱりそのなかに浮かんでいるのです。つまりは私どもも天の川の水のなかに棲んでいるわけです。そしてその天の川の水のなかから四方を見ると、ちょうど水が深いほど青く見えるように、天の川の底の深く遠いところほど星がたくさん集って見えしたがって白くぼんやり見えるのです。この模型をごらんなさい。」
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  するとどこかで、ふしぎな声が、銀河ステーション、銀河ステーションと云いう声がしたと思うといきなり眼の前が、ぱっと明るくなって、まるで億万の蛍烏賊の火を一ぺんに化石させて、そら中に沈めたという工合、またダイアモンド会社で、ねだんがやすくならないために、わざと穫れないふりをして、かくして置いた金剛石を、誰かがいきなりひっくりかえして、ばら撒いたという風に、眼の前がさあっと明るくなって、ジョバンニは、思わず何べんも眼を擦すってしまいました。
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   河原の礫は、みんなすきとおって、たしかに水晶や黄玉トパースや、またくしゃくしゃの皺曲をあらわしたのや、また稜から霧のような青白い光を出す鋼玉やらでした。ジョバンニは、走ってその渚に行って、水に手をひたしました。けれどもあやしいその銀河の水は、水素よりももっとすきとおっていたのです。それでもたしかに流れていたことは、二人の手首の、水にひたったとこが、少し水銀いろに浮いたように見え、その手首にぶっつかってできた波は、うつくしい燐光をあげて、ちらちらと燃えるように見えたのでもわかりました。
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  「カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」
 「うん。僕だってそうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでいました。
 「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
 「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。
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  「カムパネルラ、僕たち一緒に行こうねえ。」ジョバンニが斯う云いながらふりかえって見ましたらそのいままでカムパネルラの座すわっていた席にもうカムパネルラの形は見えずただ黒いびろうどばかりひかっていました。ジョバンニはまるで鉄砲丸のように立ちあがりました。そして誰にも聞えないように窓の外へからだを乗り出して力いっぱいはげしく胸をうって叫びそれからもう咽喉いっぱい泣きだしました。もうそこらが一ぺんにまっくらになったように思いました。

    ジョバンニは眼をひらきました。もとの丘の草の中につかれてねむっていたのでした。胸は何だかおかしく熱り頬にはつめたい涙がながれていました。
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 懐かしいジョバンニ、カムパネルラ、ザネイ、赤ひげの鳥捕り・・・、
 銀河ステーションの鋼青の野原の表現、 「青白く光る銀河の岸に銀色の空のススキが、もうまるで一面、風にさらさらさら、ゆられて・・・。」 「ごとごとごと汽車はきらびやかな燐光の川の岸を進みました。」
 カムパネルラがいなくなったときの、ジョバンニのこころに胸が詰まった。

  ロジャー・パルバース氏の思いを参考に、心を整理した。

 ○ 「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
    自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する
     ・・・・・・・・
      新たな時代は世界が一の意識になり生物となる方向にある
    正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くこと」 【農民芸術概論綱要】

 ○ 人間にとっての本当のさいわい(幸福)とはなんなのか?

  ○ 『銀河鉄道の夜』には、大切な人を失ったという死に対する悲しみが描かれているのと同時に、

   悲しみの乗り越え方、その先の明日への歩みを進めるためのヒントが書かれている。・・・死をテーマに描きながら、それを乗り越えていく希望の物語。

  ○  一番伝えたかったことは、「私とあなたは別々の存在ではなく、すべてのものはつながっている。」    

 ○ 他人の悲しみや苦しみを十把一絡げにするのではなく、その一人ひとりと向き合って、その人の悲しみを聞きなさい。
   「行ッテ」という言葉は、彼の生涯を見事に象徴する言葉。

      東ニ病気ノコドモアレバ
    行ッテ看病シテヤリ
    西ニツカレタ母アレバ
    行ッテソノ稲ノ束ヲ負イ
    南ニ死ニソウナ人アレバ
    行ッテコワガラナクテモイヽイトイヒ
    北ニケンクワヤソショウガアレバ 
    ツマラナイカラヤメロトイイ
                     
       --------------------

   年老いて、あらためて読む哀しい物語は、気づかなかった賢治の心を教えてくれた。

 この美しくも哀しい旅をして、賢治の描く「天上」を想像した。それは何と、これまで 思っていた世界そのままのような気がしている。

  賢治の思いを胸に、この震災に、原発事故に被った幾多の悲しみを、自分なりに受け止めたい。

  そして、出来ることを行動に移したい気持ちでいる。       

 

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斎藤茂吉、石川啄木、宮沢賢治

2012-09-03 | 文芸

  昨夜、ラジオのダイヤルを回していたら、「斎藤茂吉、石川啄木、宮沢賢治」と聞こえてきた。普段あまり聞かないNHK第2放送、偶然に出会った文化講演会だった。
 途中から聞い講演会は、宗教学者 山折哲雄氏の「震災と日本人の心」だった。
  **  NHKの番組解説 **
 【少年の日の記憶につながる東北の震災地に立った時、山折さんは「地獄」という言葉を思ったという。しかし猛威をふるった自然はあまりにも美しく、人々は柔和で穏やかな表情だった。日本人の心性は自然とどう向き合うかによって形成されて来たのではないか。大震災が日本人の心に与えた影響を考えつつ精神の行方を探る。 】

   メモをとりなが耳を澄ませた。
---- メモから -----------
《斎藤茂吉、石川啄木、宮沢賢治》
『3人に共通するもの・・・「盆地的世界」、「閉鎖的社会」』
   ・盆地:美しき自然、山、川
   上山 ・・・最上川、蔵王、鳥海山
   渋民村・・・北上川 岩手山
      花巻 ・・・
○茂吉のキーワードは「赤」
 第1詩集は「赤光」:出所は阿弥陀教典にあった。
  「あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり」(あらたま)
    浄土教のイメージ
○啄木のキーワードは「心」
   「不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸はれし 十五の心」
   一握の砂、悲しき玩具・・・徹底的に「こころ」を歌っている。
  その心の在り方・・・人の心の有り様は西行と同じ
            万葉集(挽歌 相思歌)の人間観に共通
       風葬:死者の魂は山に登る、神になり、雲、霧 
        もとの遺体に戻らない・・・死
○賢治のキーワードは「風」 作品にはいろいろな風が吹いている。 
   「注文の多い料理店」、「銀河鉄道の夜」・・・文中の「風」
    風とは何か :妹トシ:「永訣の朝」
          「オホーツク挽歌」にトシが現れる
● 3人の近代詩人のキーワード「赤」「こころ」「風」の持つ世界、思想は同じ。
  万葉以来の死生観である。
  ---------------
 講演を聴きながら、豊かなこころの世界が広がった。
 この講演内容を、興味深く聞くことができる自分のこころを幸せに思った。
  再放送は9/8にあるようだ。途中から聞いたので、震災との関連について、もう一度しっかり聞いてみたい。

 

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エッセイへの応募

2012-08-20 | 文芸

     【今朝の黎明磐梯(2F自室より) a.m.4:43】

  磐梯町主催で「徳一菩薩」「慧日寺」のエッセイ募集(原稿用紙4枚1600字程度)があった。

 応募のきっかけは、かつての同僚、白岩孝一氏の 『徳一と法相唯識』出版祝賀会で、そのチラシを手にしたことからだった。

 いつもの里山巡りで、ときどき慧日寺界隈を歩き、時には慧日寺資料館へも立ち寄るなど、それなりに興味もあり、

その後、勝常寺を尋ねたり手元にあった徳一関連の本を読んだり、5月のエッセイの締め切り間近に、応募した。拙い文章だが”エッセイ”と、軽く考えて・・・。

 数日前に、「厳正な選考の結果、入選にはいたらず、ご期待に添いかねる結果となりました。」と、磐梯町の名産品「とちの蜂蜜」が添えられた通知が届いた。

 推測するに、徳一や慧日寺のより神髄に迫る内容が期待されるに違いなかった。

 以下は、今回の応募エッセイである。

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題名:  「慧日寺金堂の復元に思う」                  
本文:
 時折、会津の歴史を反芻したい思いにかられている。これからの残された時間に、ふるさと会津を自分の足で訪ね、風土や人々の営みを過去という膨大な時間の中で見つめる、そんなこころの旅をしてみたいと夢見ている。そんな折、国史跡の指定を受けてから実に42年の時を経て、磐梯町悲願の慧日寺金堂が復元された。あらためて、中世会津の歴史を振り返りたいと思っている。 
  まだ春浅い日に、平安の世に思いを馳せながら、一人慧日寺の史跡を巡った。再建されたとち葺き屋根の金堂や中門の神々しい朱色の柱が美しく鮮やかに見えた。史跡の奥にある徳一廟への雪の消えた土手には黄緑色の蕗のとうが輝き、清冽な小川のせせらぎに、悠久の時を超えて真っ白な磐梯山が凛として聳えていた。
  東北最古の寺院慧日寺は法相宗の徳一によって開かれ、山岳信仰と密接な関係をもち、磐梯山を奥の院として成立したと考えられている。平安時代の中頃には寺僧三百、僧兵数千にのぼり、支配権は会津一円に及んだと言われる。往時の広い寺域は、伽藍や周辺の景観を描いた、現存する「絹本著色慧日寺絵図」で想像できる。しかしその後の度重なる合戦や焼失、さらに明治の廃仏毀釈により廃寺となった歴史がある。今、甦った金堂を前にして、奈良、平安からの長い歴史の流れの中の現在(いま)を思っている。
 再建なった中門、金堂の北には、講堂、食堂、仏堂と推定される建物の礎石跡が立派に整備されたが、これら甦った有形の文化財と共に、そこに隠れるこころを知りたいと思っている。徳一はどんな人だったのだろう。先ずは、郷土会津の仏教文化の礎を築いた徳一菩薩の人間像を探ってみたい。
 徳一に関わる身近な諸著作を巡った。「奈良朝末・平安初期の会津に徳一という日本最高の法相学者がいた。」「この知的豪族が、唯一人で奈良仏教を代表して平安仏教の最澄と論戦し、最澄を苦しめつづけた。」(*1) 「若冠、都を去り、東国の人になり、辺主に甘んじた、いや、それを使命とした平安宗教改革者徳一」(*2) 「徳一は法相宗学を基礎に、当時流行していた薬師信仰を取り入れ、仏教修行には騒がしすぎる南都を離れ、心静かに山林修行に励むことの出来る地、会津に向かった。」(*3) 「「元亨釈書」によると、彼の宗風というのは、都市的奢侈を極端に嫌い、粗衣粗食に徹した乞食僧のような行道ぶりだった。」(*4)等々、これらの著述に、徳一像がおぼろげに浮かんできた。
  先日、湯川村の勝常寺で初めて本物の徳一座像に対峙することが出来た。その醸し出す風貌に深く胸を打たれた。遙か1200年の時の流れを静かに見つめつづけながら、彼は何かを語ろうとしていた。徳一は何を遺し、私たちはこの徳一から何を学べばよいのだろうか。これから、まだまだ咀嚼できない徳一菩薩の論にじっと耳を傾けてみたいと思っている。
 ところで、慧日寺裏のわずかな山あいは、私にとっていつも馴染みの里山である。そこには、最近絶滅が危惧されているチョウ(*5)が細々と棲息している。私は十数年の間、太古の昔から営々と生き延びてきたであろうこの小さなチョウを見つめてきた。毎年、少なくなったこのチョウの無事な姿を撮り、その都度安堵してきた。思えば、その折にはいつも側らの徳一廟を訪ねて手を合わせ、最近は史跡の発掘作業や金堂再建の様子を垣間見てきた。今ここに中世の文化遺産が蘇ったが、おそらく当時も緩やかに舞っていたに違いないこの小さな自然遺産にも目を向けて欲しいと願っている。しかも、この保護は緊急の課題である。一度失われた自然は戻らないからだ。
 この史跡慧日寺の整備を目の当たりにして、あらためて失われてはならないふるさとの文化、自然を大切に保存し、未来に継承していくことの意義を痛感している。そして、磐梯山麓に、さらなる新しい、豊かな文化継承の風が吹いて欲しいと願わずにはいられない。
                                               
(参考)
(*1)・司馬遼太郎著「街道をゆく」  (朝日新聞社)
(*2)・高橋富雄著 「徳一菩薩」    (歴史春秋社)
(*3)・白岩孝一著 「徳一を尋ねて」(NPO法人会津の文化づくり)
(*4)・豊田武監修 「会津の歴史」  (講談社)
(*5)ヒメシロチョウ:国の絶滅危惧Ⅱ類、福島県の準絶滅危惧種に指定されている。     

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会津の旧石器時代

2012-05-27 | 文芸

  土曜日、赤井谷地から国道への近道の道路脇で、なにやら発掘作業が行われていた。
 尋ねると、旧石器時代の遺跡の発掘調査で、郡山女子大、東北大、県などの共同研究調査のようだ。ジャージ姿はザベリオの女子高校生だった。

 この付近は、最近1980年代からの調査で遺跡群が確認され、急速に資料収集されたようだ。昔、「岩宿の発見」を胸躍らせて読んだ記憶がある。その後、遠路、岩宿遺跡を見に行ったこともあった。 【(参)拙ブログ「岩宿の発見」(2009-09-30) 】http://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/bff234bfdb2bc14fc7a97884356a8618#comment-list

当時の、「日本にも旧石器時代があった」の時代から、いつ急速な研究調査が進んだのだろう。

今、会津の笹山原遺跡は東北地方でも有数な遺跡密集地として注目されている。

特に後期旧石器時代前半期の石器群と、終末期の細石刃を主体とする石器群の確認例が多い。

 

日曜日、武琉を連れて発掘の様子を見せに行った。笹山原の公民館前の駐車場にはバスが止まっていた。

郡山女子大の附属高校の生徒が小さなスコップを手に熱心に発掘していた。

粘土層は2万7千年前の地層、そこに埋もれてる石刃を丁寧に見つけていた。

発掘している遺跡の中央には、縄文時代の墓と見られる石ころ集まって出ていた。

 

 武琉も興味深そうに見つめていた。

 粘土地層の上には5,60センチの黒い土があったが、その中に見える小さい石粒は、2万年前の金山の大噴火の火山灰らしい。

 ついでに、里山を一巡りと思ったが、彼の興味がいまいちだった。

帰路、ヒメシロチョウの郷に寄ると、この前草刈りがされていなかった土手がきれいに刈られていた。残念でならなかった。

先日、ヒメシロチョウが遊び、産卵していた土手のツルフジバカマもきれいに無くなっていた。

かろうじて、土手の半分が残されている。また見に来ようと思うが、このまま残して欲しい。

わずかに1頭が、寂しそうに舞っていた。

 

何とかならないか、行動を起こしたいと思った。

いよいよハラビロトンボが出現した。本日初見、額のブルーが懐かしかった。

 

 

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『徳一と法相唯識』 出版祝賀会

2012-04-30 | 文芸

 

 お昼から、かつての同僚、白岩孝一氏の出版祝賀会に出席した。

 お酒の入らない、勉強会と言った祝賀会、セレモニー後、昼食会、引き続き講演と質疑があった。

 出席者は30人ほど、会津の各界の名の通った方々が名を連ねて、一介の教師だった自分には何か場違いの席に感じられた。

  併せて、人付き合いが嫌いで社交下手、我が身を痛感させられた。

  今更、性格や生き方を変えるべくもないが、第2の人生を精力的に歩むかつての同僚に敬意を覚え、多少の羨ましさも感じた。

 今回の大作の『徳一と法相唯識』は偶然本屋で手にして、ブログで書かせてもらった。
  http://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/e51117b03c435af47999fa69f18a6214    2008-01-03 
  http://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/705fe78df104bfa6035b21ac2224f0a1     2011-12-22  

 

 彼は徳一菩薩の開いた湯川村勝常の生まれ、そんな縁で、徳一の顕彰を精力的に進めている。

 近々、3部作となる著作に取り組んでおられる。その意気込みは素晴らしい。

 今後さらにご活躍を祈念したい。本日はおめでとうございます。

 

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携手撫風光

2012-04-06 | 文芸


 先日、冬期休館していた磐梯山慧日寺資料館を訪ねた。
展示場の壁に色紙に書かれた書が飾られていた。

【携手撫風光(手を携えて風光を撫す)】興福寺の多川俊英貫首の揮毫だ。
解説には、「明治の文豪・森鴎外の漢詩の一句で、〈いっしょに自然の景色を楽しむ〉の意とあった。写真撮影できないので、手帳にメモをとった。

  多川俊英貫首について、ネットで調べると、福島民友新聞のシリーズ記事 「1200年の時を超え よみがえる慧日寺金堂」への寄稿文(以下の(16))を見つけた。また、昨年秋には、磐梯町で師の講演会もあった。知らないでいたことが残念に思えた。
 ネットのプロフィールには、各界の著名人とも親交が深く、中でも免疫学者の多田富雄と親交が深く、脳梗塞の後遺症で言葉が不自由になった多田と電子メールによる会談が朝日新聞にて「いのちと死と能と」と題され公表された。と。

 少し師から学びたいと思う。
 幾つもの著書の中の「心に響く99の言葉―東洋の風韻」「旅の途中」をアマゾンに発注した。

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  【(16)徳一の息吹実感を 会津仏教の力再認識】    (2008/03/25 福島民友)から   
 史跡調査開始から四十年以上にわたり連綿と続いた復元への熱意が結実し、ついに完成の時を迎える慧日寺金堂。仏教界などから大きな注目を集めている。若き日の徳一が修行に励んだ奈良、興福寺のトップである多川俊映貫首が復元事業の意義などを語った。
 日本の仏教の中心は歴史的に奈良、京都であるとされていますが、都を離れた高僧徳一が現在の磐梯町に慧日寺を興した九世紀前半以降、実は東の会津に、もう一つの拠点が形成されていたのです。それが今回、慧日寺金堂の復元によって目に見える形になる。これは注目に値します。
 徳一に関しては資料も少なく、謎の人物とみられてきました。天台宗の最澄との論争で知られる程度です。それが、金堂復元を契機にあらためて光が当てられ、埋もれていた資料が出てくるようになるかもしれません。
 徳一が都から東国に向かったのは大きな宗教的使命を帯びていたと考えられます。だからこそ、大工やさまざまな技術者も連れて行き、湯川村の勝常寺に残るような高いレベルの仏像を作ることも可能だったのだと思います。
 磐梯町の慧日寺跡には数回足を運びました。千二百年前に興福寺で仏道の探究に取り組んだ徳一が大きな足跡を残した地を、同じ法相宗の自分が再び訪れるようになる―。なんとも不思議な縁を感じますね。
 磐梯町では町が徳一の業績を検証し、金堂復元に取り組んでいることにまず驚きました。現在は全国的にどこの自治体も財政的問題を抱えています。磐梯町も例外ではないでしょうに、文化振興に努める姿勢に敬服します。いにしえの人に光を当て「徳一菩薩と慧日寺」を発刊し、町内各戸に配布しました。会津仏教の価値を再認識させる活動に励んでいるのです。
 復元された金堂を間近に見ることで、徳一の生きた息吹を実感できることでしょう。当時の仏教文化への理解がさらに多くの人に広まることを期待します。
 興福寺でも現在、中金堂の再建に取り組んでいます。寺創建千三百年に当たる平成二十二年には立柱までこぎ着けたいと考えていますが、一歩先を進んでいる慧日寺はいい刺激になり、こちらも頑張ろうという気になります。
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「家族の歌」

2012-04-04 | 文芸


 
 短大図書館で、ふと目に入った「家族の歌」を借りてきた。昨年2月に出版された「河野裕子の死を見つめた344日 「家族の歌」」である。

  しばらく忘れていた河野さん、もう亡くなって一年半になるのか。
  産経新聞紙上で、家族4人のリレーエッセイ「お茶にしようか」の連載が始まってから、裕子さんが亡くなった平成22年8月12日までの344日間の日々の記録だ。
 日々衰えていく体力を冷静に見つめる河野裕子さん。その後の葬儀を終えてからの家族の思いが綴られていく。一篇一篇の家族のエッセイに胸が詰まる。

○裕子さんのエッセイ「往診」、書かれた数日後の旅立つた彼女の思い。
 ”聴診を受くるは何年ぶりのこと胸と背中をゆっくり滑る
 口述筆記や種々家族に負担をかける自宅看護をありがたく思い、問診や聴診に入院時とは違うぬくもりを言う。

○亡くなる前の夫のエッセイ「最期の歌」にも、涙が溢れた。
 ”おはようとわれらめざめてもう二度と目を開くなき君を囲めり

死の間際まで歌を作った、生まれながらの歌人の最後の口述、
 ”あなたらの気持ちがこんなにわかるのに言い残すことの何と少なき
 ”手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が

  別れは切ない。いつかは来る、自分にもほど遠くはない人生の別れだ。

ふと、河野ファミリーと同じように妻を囲む自分と子供たちが浮かんできた。一日一日を大切に過ごさなければ。

以前の感想を拾う。【拙ブログ「逝く母と詠んだ歌五十三首 永田 紅」2010-11-04】http://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/9c45a4af5f218184a9233ccab10c9460《一年一年、何と早く過ぎていくことか。あれから7年、あれから15年、30年と、思い返す懐かしかったあのころ・・・。生きた密度は比べぶくもないが、私も妻も、河野さんと同い年だ。本当に人生は短いと思う。また、家族の幸せを思う。》    

     

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寺田寅彦の示唆に富む警鐘

2012-03-24 | 文芸

    ”大震災あれから巡り竹の秋

  書斎からながめる春は、まだ浅い。小雨に濡れる椿の緑と黄ばんだ竹の葉が風に揺れている。

「竹の秋」は春の季語。親の竹は、新緑の時期に葉っぱが黄色く枯れたようになり、終には落葉する。まるで秋の紅葉のような現象を「竹の秋」と言う。

庭の黄ばんだ竹の葉は、春を迎える明るさに影を落とす一抹の寂しさを感じさせた。

 そんな肌寒い早春の庭をながめながら、寺田寅彦随筆集を持ち出し、目次から「天災と国防」、「災難雑考」などを拾った。

そこには、地震の「現象」は止められないが「災害」は注意次第で軽減しうること、さらに文明が進むほど自然災害は甚大となる事実、

「安政地震」とは事情が全く違うこと、また、事故の責任の取り方や検証の意義、

気象学的地球物理学的に絶えず脅かされる運命に置かれる日本であることを一日も忘れてはならないことなど、

もう80年も前の物理学者の震災への示唆に富む警鐘があった。天災は忘れた頃に来たのだ。

 

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江戸職人の神業

2012-01-06 | 文芸

 1/5朝4時にラジオで竹工芸作家の武関翠篁さんの話【竹のこころを編むの第1回】を聞いた。伝統的な竹細工について興味ある話だった。

2009年、武関さんは文化庁の文化交流使としてドイツに滞在し、日本の竹工芸技術の紹介や講演を行った。

ハンブルク美術館で、江戸末期から明治にかけて活躍した日本の竹工芸作家の祖と言われる、初代早川尚古斎のコレクションの特別展が開催された。

そのときにあるドイツ人が尚古斎の作品のレプリカを研究のためにつくっていたが、編みも組みも見た目はそっくりだが、手触りがまったく違った。

尚古斎のものは使っている一本一本の竹ひごすべてに面取りが施され滑らかでやさしかったのだ。日本の竹工芸の繊細さ、奥深さを再認識したという。

また、ドイツの人たちの美術や芸術への接し方が印象的で、日本以上に、ものを大切にする文化がしっかりと根づいていると感動したという。

武関翠篁さんと作品(ネットから)

  

 話の中で、武関さんが依頼されて造ったトンボの編み細工作品が、夜10:30~BSプレミアム【にっぽん・微笑みの国再現!江戸職人の神業】で紹介されることを聞いた。

深夜までの放送だったが、興味深い放送を楽しく視聴できた。 でも、残念ながら翌朝4時の武関翠篁さんの第2回目の放送は起きられずに聞けなかった。

 【にっぽん・微笑みの国再現!江戸職人の神業】(ネットの番組紹介欄) 
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明治初期に日本を訪れた、アメリカ人の生物学者エドワード・モース[1838~1925]は、誰も見向きもしないような、庶民の生活道具を収集した。その数、3万点。げたや雑巾、照明器具や花カゴ…。そこからは、当時の庶民の暮らしぶりや、職人たちが持っていた「美意識」「誇り」が、あざやかによみがえる。瓦版屋に扮した中村梅雀さんのナビゲートで送る、微笑みの国の物語。モースと梅雀さんの、時空を越えた不思議の旅にご招待する。
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   モース・エドワード  【動物学者】    
  大森貝塚を発見した日本考古学の恩人。日本文化を日本人以上に愛した。
 明治初期に来日したアメリカ人動物学者。メーン州生れ。1877年(明治10)日本の腕足類を研究するため自費で来日した。横浜から東京に向かう車窓から大森貝塚を発見、思いがけず東京大学初代の生物学教師として調査することになった。各地の講演会ではダーウィンの進化論を紹介、また一方では日本の文化財保護の重要性を説いた。79年帰国、セーラムのピーボディ博物館館長となり、自ら収集した日本コレクションを公開した。
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  モースは著書「日本その日その日」で、庶民の生活を細かに観察し、日常の生活にあった用と美を見つめながら、ありとあらゆるものが消え失せてしまうだろうと書いている。 
 また、日本人ほど自然を愛する国民はいない、美徳や品性を生まれながらに持っているなどと書いている。

  江戸の豊かな日常を再認識し、確かにもう失われてしまったか、わずかに残されている文化を思った。
   番組は高岡の火鉢や竹細工にスポットを当てながら、江戸の職人の神業を紹介していた。
  あらためて、日本の伝統的な工芸について学びたいと思った。
 我々は、かつての清貧な豊かな生活やほとんど無くなってしまうであろう日本人らしささえももう一度取り戻さなければならないと思った。
 
 番組を視聴しながら、かつて読んだ渡辺京二著の「逝きし世の面影」を思いだした。 

 【拙ブログ 「逝きし世の面影」2009-01-13http://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/a923fd306064729f8659b682186daef6

  彼は「文化は生き延びるが文明は死ぬ。一回限りの有機的な個性としての文明が滅んだ。意図はただ、ひとつの滅びた文明の諸相を追体験すること。それは、古き良き日本の愛惜やそれへの追慕でもない。」  「近代以前の文明が変貌しただけで、同じ日本という文明が時代の装いを替えて今日も続いているというのは錯覚で、このような日本の文明は、すでに逝ってしまった」などと著作の意図を述べていた。

 今夜は「新日本風土記スペシャル 手の国にっぽん」が放送される。
番組の解説には、「日本人は何を失い、何を守ってきたのか、目利き十人十色の物語を積み重ねながら、伝統工芸の至宝の魅力と、それを育んだ日本の風土を描きます。」とある。
視聴を楽しみにしている。

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