都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
化粧のルーツについては2009年12月6日「化粧の起源と歴史」で述べましたが、今回はギリシャの遊女が考えた肌荒れカバー法についてお話したいと思います。
「遊女」というと、金に困った両親が娘を人買いに売り払ってしまったような、どこか身を持ち崩したようなイメージがあるのですが、古代のギリシャやローマにおいては、それほど低い地位でも、見下される職業というわけでもなかったようです。
特に古代ギリシャでは食料品の買い物ですら男性の仕事であり、一般女性は専ら家の中にあって、つつましく家庭を守りながら夫を助けるべき存在でした。特に年頃の娘の顔などは何かの祭礼の折に垣間見るしかないため、宴会などで場を取り持つのは専ら遊女の役目でした。現代で言うなら「コンパニオン」でしょうか。
男性と対等に会話を交わすためには才能と知恵と教養が必要となり、いきおい古代ギリシャにおける遊女の存在は、その美貌と才能によって華やかにもてはやされる存在となっていったのだそうです。男と対等に語るために、男を凌ぐ高い教養を身につけていくことになったといえば、江戸時代の花魁のような存在だったのでしょうか。
ギリシャの遊女たちは、香水風呂に入り、無駄毛を抜き、白粉(おしろい)、頬紅(ほおべに)を塗っていました。眉(まゆ)を整え、アイライン、マニキュア、ペディキュアも施(ほどこ)していたそうです。
ルネッサンス期(14世紀-16世紀)の女性は、化粧に大変気を使うようになります。肌を白く見せるために純銀、水銀、白鉛(しろなまり:錫)、焼き明礬(みょうばん)などが使われていました。
しかし、こんなものを塗ったら肌をいためることは確実です。顔にアバタやシミができて当然です。そんな時、彼女たちはどんな方法でこれをカバーしたのでしょう。
星や花形の黒い布を貼り付けたのです。隠したいところを目立たすという逆転の発想です。
これは、まるで蝿(はえ)がとまっているように見えたので、フランスではムーシュ(蝿)と呼ばれている。これが「つけぼくろ」のはじめだそうです。
ルネッサンス期の女性は前途の漂白クリームのほかに、肌を若返らすために、卵とぶどう酒、羽を半分むしった鳩、チーズ、リンゴなどを火にかけ、それを顔に塗っていたというのです。女性の執念は恐ろしいというかすさまじいものがあります。
やがて、17世紀のルイ王朝時代に入ると、このムーシュが一般女性にも大流行しました。婦人たちは色々な形に切り抜いた「つけぼくろ」を箱に入れて持ち歩き、TPOに合わせて専門の「つけぼくろ師」につけてもらったのだそうです。
それから100年も経つと、男性貴族たちのあいだでも化粧が大流行したのです。白粉を下地にルージュをたっぷりと塗りたくったのだそうです。
したっけ。