都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
ヘンリー8世(Henry VIII) 1491年6月28日 - 1547年1月28日 亡56歳。
テューダー朝のイングランド王(在位:1509年4月22日(戴冠は6月24日) - 1547年1月28日)、アイルランド王(在位(自称):1541年 - 1547年)。イングランド王ヘンリー7世の次男。
ヘンリーはテューダー朝開祖/ヘンリー7世と、前王朝ヨーク家の王女エリザベスとの間に生まれました。1491年6月28日、今は存在していないグリニッジ宮殿で誕生した時には、すでに兄のアーサー、姉のマーガレットという2人の兄姉がいました。
5歳年長の兄アーサーは1489年に皇太子及びコーンウォール公に冊立(さくりつ)されており、同年にはスペイン王女との婚約も整い、誰の目にも未来の国王はアーサーとしか映りませんでした。
ところがアーサーはヘンリーが11歳の時に急死したため、急遽(きゅうきょ)ヨーク公であった彼(ヘンリー)が皇太子に立てられたのです。
彼は教育係から叱られる時も、側近の者が代わりに鞭で打たれたという、甘やかされて育った子供であったのです。音楽を好み、10歳でフルート、ビオラ、ハープを演奏できたといいます。
12歳で、スペインからの要請で亡兄アーサーの名ばかりの妃であったキャサリン・オブ・アラゴンと婚約しました。キャサリンがアーサーとまったく肉体関係がなかった事は女官長他側近達も証言する事実でありました。
しかし父ヘンリー7世はスペインとの約束を踏み倒すつもりで、2人の結婚を認めなかったのです。
そこでヘンリーは、1509年父王が崩御し、自身が即位するのに伴い、婚約者キャサリンを正式な王妃に迎えたのでした。
ヘンリー8世は俗に「ヘンリー8世と6人の妻たち」といわれるように、6回結婚したことで知られています。最初の王妃キャサリンとは父王の反対を押し切っての恋愛結婚、2度目のアン・ブーリンとはバチカンと決別してまでの不倫掠奪婚、3度目ジェーン・シーモアは2番目の妻を処刑しての恋愛結婚、5度目のキャサリン・ハワードも恋愛結婚、6度目のキャサリン・パーも恋愛結婚でした。
いずれもヘンリー8世自身が見そめて、恋をし、妃に迎えた女性ばかりでありました。わずかに4度目のアン・オブ・クレーフェのみ、政略の意味もあって妻にした女性でしたがそれとてホルバインの描いた肖像画の美貌に惹かれたという理由もあったのです。
恋愛結婚したはずの王妃たちの運命は決して幸福なものではありませんでした。
最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンの故国スペインは、最初英国の同盟国でありましたが、1519年に神聖ローマ帝国皇帝カール5世が即位すると、スペインはオーストリアの一部となったのです。
神聖ローマ帝国皇帝カールは1527年サッコ・デ・ローマ(ローマ掠奪)で、法王すら支配する勢いであったのです。危機感を覚えた英国は敵国だったフランスに急接近し、スペインと対立した結果、王妃キャサリンの立場は弱まりました。おりしもヘンリー8世は、フランスから帰国した駐在フランス大使の娘アン・ブーリンに魅了され、王子が生まれなかったキャサリンとの結婚を解消すべく法王に働きかけました。
熱心なカトリック信者であったヘンリーだが、思い通りに離婚許可を出さない法王に腹を立て、バチカンと断絶。1534年、強引にアンと式を挙げたのです。「国王至上法」を発令して、内容的にはほぼカトリックと変わらない、しかし法王の代わりを王が務めるという初期の「英国国教会」を成立させたのです。
1536年、アン・ブーリンを反逆罪で処刑したヘンリーは、3番目の王妃にジェーン・シーモアを娶り、後のエドワード6世が生まれました。同年から国内の法王領である修道院の財産没収に着手したのです。わずか4年で大小合わせて400近い修道院が解散となりました。政情不安から、1536年には「恩寵の巡」 礼なる大反乱が勃発しています。1537年、ジェーン王妃が産褥で亡くなったために、2年後ドイツの新教国クレーフェから公女アンナ(アン)を迎えるものの即離婚し、1540年には20歳にも満たないハワード家のキャサリンと結婚。2年後には反逆罪で処刑してしまうのです。
その翌年最後に迎えた王妃キャサリン・パーだけは、ヘンリーの死後まで生き延びました。
1547年、ヘンリー8世は持病であったリューマチ或いは梅毒が悪化し、第3王妃ジェーンの兄サマーセット公を摂政に任命して、10歳の皇太子の後見を任せるとホワイトホール宮で息を引き取りました。1547年1月28日のことでした。
ヘンリー8世と6人の妃たち
キャサリン・オブ・アラゴン(Catherine of Aragon) 1485年 - 1536年 亡51歳
1509年結婚、1533年離婚(48歳) 。はじめアーサー王太子妃。死別後、その弟ヘンリーと再婚。メアリー1世の母。結婚から20年余りを経た後に離婚。
アン・ブーリン(Anne Boleyn) 1507年? - 1536年 亡29歳?
1533年結婚、1536年離婚(29歳)。エリザベス1世の母。元はキャサリン・オブ・アラゴンの侍女。離婚後にロンドン塔で刑死。
ジェーン・シーモア(Jane Seymour) 1509年? - 1537年 亡28歳?
1536年結婚、1537年死去(28歳)。エドワード6世の母。元はアン・ブーリンの侍女。エドワード出産後に産褥死。
アン・オブ・クレーヴズ(Anne of Cleves) 1515年 - 1557年 亡42歳
1540年結婚、同年離婚。ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヨハン3世の娘。結婚後6ヶ月で離婚(25歳)。
肖像画があまりにも美化されていたため、初対面時にヘンリーが激怒したというエピソードが残されている。
キャサリン・ハワード(Katherine Howard) 1521年? - 1542年 亡21歳?
1540年結婚、1542年離婚(21歳)。アン・ブーリンの従妹。結婚1年半後に反逆罪で刑死。
キャサリン・パー(Catherine Parr) 1512年? - 1548年 亡36歳?
1543年結婚、3年半後の1547年夫と死別(35歳)。学識高く、メアリー、エドワード、エリザベスの教育係も務めた。
したっけ。