神奈川県鎌倉市の建長寺にある河村瑞賢の碑
河村瑞賢は鎌倉事典によると建長寺裏付近に別荘があった縁で墓が建長寺につくられた。
河村瑞賢追悼碑
封建時代においては姓名を歴史に残そうとする者は官吏や歴戦の武士でのみで平民にいたって事業によって惠澤を後世にのこしても 其姓名埋沒して記述されない者も多い。然るに河村瑞賢の姓名のみが伝えられるのを見ては事業人物の如何に傑出したるか想像できるだろう。 瑞賢は元和四年二月十五日伊勢度會郡鵜倉村東宮に生れる。 幼名は七兵衛 後十右衛門と改めた 十三歳にして江戸に出て車力 日雇頭より材木商になった。 機略縦横知恵がわくようにでて 行なうことは一般の人には思いつかないことをして、その企ては失敗することは無かった。 四十歳頃には財力で日本一といわれた。 江戸幕府はその才を重んじて委任する所が多かった。その中で最も大いなるものは寛文十一年奥羽諸國と江戸との航路を改め 船舶を強大ならしめ 海難救助の法を定め 船頭水夫の待遇を改善し 海運の方法を根本より変革した。 従来奥羽より江戸に米を送るに一ヶ年を要したが 変革後東廻り海路は三ヶ月 北廻り路は五ヶ月でたりた。この結果、仙台における米価は金一兩に七石だったものが 此後二石四斗に上って農民の所得が以前の二倍となった。江戸の民もまた物資の欠乏を免れ、地方経済より国民経済に移るのに促進した。天和貞享の間、また幕命を奉じて淀川を修理し溝渠を掘り 排水の方法を講じて數百年来ノ水害を取り除いた。元禄十年将軍綱吉之と謁見し、百五十俵の禄米をもらい若年寄になった。これより名前を改めて平太夫と稱す。 元禄十二年攝津河内の治水工事がおわり、三月江戸に帰ったが病を得て六月十六日八十二歳にて死す。彼は勞働者より身を起こしたにもかかわらず 學問を重んじ萬巻の書を家に所藏して學者に貸しあたえ、また私財を学者に与えること少なからず、 新井白石のごときもその一人にして 機内治河記 奥羽海運記を著して瑞賢の功績を伝えた。別に瑞賢の著したものは疏瀹提要 本朝河攻略記があります。 瑞賢はまた開拓の志しがあり、 浪人小笠原長啓に私財を提供して太平洋の無人嶋を開かしめんと希望するが病で目的を果たせず、この後 小笠原諸島なり彼の一生を見るに喬木の種子が風に翻弄され、雨に打たれて不毛の地に落ちて芽を出し、ついに岩石を貫いて大樹となった如く一人の力が如何に社會の因襲と戦い凌ぎ得るかを示す記念塔というべし。中島真雄君は彼の墓が蔓草に覆われ墓誌の文字風霜に磨損していて読むことが出来ないのを見て、 傷心の情を禁ずべからず。 建長寺の菅原管長 近藤總理 松井七夫 栗田傳兵衛四君と謀って、河村瑞賢のために墳墓保存會を起し 衆人と力を合せて碑を建てた。おおよそ日本經濟史において瑞賢の功績を伝える縁があって文章を撰して、もってそのことを記す。
昭和九年九月
竹越與三郎撰
松本英一書
河村瑞賢の碑は建長寺の奥にある半増坊に向かう途中にある。訪れる人はまばらであるが墓地は綺麗に掃き清められ碑が立っている。
鎌倉市史 社寺編304頁
建長寺は久能山の徳川家の拝殿を正保3年に移築した。(沢庵と瑞泉寺文書)
また唐門も久能山より移築。沢庵和尚は正保2年に亡くなっているので、沢庵存命中に決定されていたのであろう。
大欲-小説河村瑞賢 峯崎淳著に瑞賢は沢庵和尚の東海寺の造作に関与していることになっている。とにかく沢庵和尚という人は吉川栄治の小説宮本武蔵のように、歴史小説家に都合の良い人かもしれない。
河村瑞賢は鎌倉事典によると建長寺裏付近に別荘があった縁で墓が建長寺につくられた。
河村瑞賢追悼碑
封建時代においては姓名を歴史に残そうとする者は官吏や歴戦の武士でのみで平民にいたって事業によって惠澤を後世にのこしても 其姓名埋沒して記述されない者も多い。然るに河村瑞賢の姓名のみが伝えられるのを見ては事業人物の如何に傑出したるか想像できるだろう。 瑞賢は元和四年二月十五日伊勢度會郡鵜倉村東宮に生れる。 幼名は七兵衛 後十右衛門と改めた 十三歳にして江戸に出て車力 日雇頭より材木商になった。 機略縦横知恵がわくようにでて 行なうことは一般の人には思いつかないことをして、その企ては失敗することは無かった。 四十歳頃には財力で日本一といわれた。 江戸幕府はその才を重んじて委任する所が多かった。その中で最も大いなるものは寛文十一年奥羽諸國と江戸との航路を改め 船舶を強大ならしめ 海難救助の法を定め 船頭水夫の待遇を改善し 海運の方法を根本より変革した。 従来奥羽より江戸に米を送るに一ヶ年を要したが 変革後東廻り海路は三ヶ月 北廻り路は五ヶ月でたりた。この結果、仙台における米価は金一兩に七石だったものが 此後二石四斗に上って農民の所得が以前の二倍となった。江戸の民もまた物資の欠乏を免れ、地方経済より国民経済に移るのに促進した。天和貞享の間、また幕命を奉じて淀川を修理し溝渠を掘り 排水の方法を講じて數百年来ノ水害を取り除いた。元禄十年将軍綱吉之と謁見し、百五十俵の禄米をもらい若年寄になった。これより名前を改めて平太夫と稱す。 元禄十二年攝津河内の治水工事がおわり、三月江戸に帰ったが病を得て六月十六日八十二歳にて死す。彼は勞働者より身を起こしたにもかかわらず 學問を重んじ萬巻の書を家に所藏して學者に貸しあたえ、また私財を学者に与えること少なからず、 新井白石のごときもその一人にして 機内治河記 奥羽海運記を著して瑞賢の功績を伝えた。別に瑞賢の著したものは疏瀹提要 本朝河攻略記があります。 瑞賢はまた開拓の志しがあり、 浪人小笠原長啓に私財を提供して太平洋の無人嶋を開かしめんと希望するが病で目的を果たせず、この後 小笠原諸島なり彼の一生を見るに喬木の種子が風に翻弄され、雨に打たれて不毛の地に落ちて芽を出し、ついに岩石を貫いて大樹となった如く一人の力が如何に社會の因襲と戦い凌ぎ得るかを示す記念塔というべし。中島真雄君は彼の墓が蔓草に覆われ墓誌の文字風霜に磨損していて読むことが出来ないのを見て、 傷心の情を禁ずべからず。 建長寺の菅原管長 近藤總理 松井七夫 栗田傳兵衛四君と謀って、河村瑞賢のために墳墓保存會を起し 衆人と力を合せて碑を建てた。おおよそ日本經濟史において瑞賢の功績を伝える縁があって文章を撰して、もってそのことを記す。
昭和九年九月
竹越與三郎撰
松本英一書
河村瑞賢の碑は建長寺の奥にある半増坊に向かう途中にある。訪れる人はまばらであるが墓地は綺麗に掃き清められ碑が立っている。
鎌倉市史 社寺編304頁
建長寺は久能山の徳川家の拝殿を正保3年に移築した。(沢庵と瑞泉寺文書)
また唐門も久能山より移築。沢庵和尚は正保2年に亡くなっているので、沢庵存命中に決定されていたのであろう。
大欲-小説河村瑞賢 峯崎淳著に瑞賢は沢庵和尚の東海寺の造作に関与していることになっている。とにかく沢庵和尚という人は吉川栄治の小説宮本武蔵のように、歴史小説家に都合の良い人かもしれない。