年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

了翁禅師 6

2007年01月22日 | 福神漬
了翁禅師の造った不忍経蔵は寛文12年(1672)に増築したが、間もなく地震によって倒壊してしまった、経堂島は人工島であったため地盤が弱かったためで、了翁はくじけることなく経蔵は再建された。とにかく地震・火災で度々経蔵は被災し、再建された。また、不忍池の中にあるため経巻が湿気で傷むこともあった。
 了翁49歳の時、『錦袋円』の繁盛をねたんだ同業者により寺社奉行所に「僧侶にあるまじき所業」と告訴された。寺社奉行所も一応尋問したが直ぐに無罪となって、かえって日頃の所業を賞賛したという。

勧学講院の創立
 延宝8年(1680)四代将軍家綱公が死去した。霊廟を上野の東叡山に造営することになり、代地を別に賜わった。その時了翁は代地の余地に経蔵をつくりたいと願い出た。請願以来2ヵ年半を要した後、天和2年(1682)東叡山の領地54間四方を賜わり勧学講院の創立した。北寮は3百に58間瓦葺で、其他南、西、東、に三寮あり、不忍池中の一切経蔵並びに文庫は、勧学講院に移された。ことに注意すべきは、東叡山の地にあった東叡山所化寮も勧学講院に合同されたことである。ここまで了翁の計画が進行したことにつき一部の根強い反対があって了翁はあやうく毒飯を食する様な危険な事件が4回もあった。
日本文庫史研究 下巻 小野則秋著より
 
東京都文京区千駄木にある駒込学園の前身は勧学講院で、天和2年(1682年)に了翁禅師によって上野・寛永寺境内の不忍池のほとりに創立されました。社会に大きく開かれた「寺子屋」だったようです。
駒込学園の学校案内より

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