年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

沢庵和尚の鎌倉紀行

2007年01月12日 | タクワン
江戸幕府二代将軍秀忠が死去の後、家光によって赦免された沢庵は江戸に戻ってきたが、約2年間駒込・吉祥寺の堀丹後守直寄の下屋敷や柳生宗矩の世話をうけていた.沢庵は京に戻る事を希望していたが戻れずにいた。その間に鎌倉に旅行している。この旅行の後沢庵は、幕府の庇護の無い寺院の悲惨な状態を知り,後に変心してゆくきっかけとなる。
『天下の五嶽・かくのごとくなり果てる事やあると嘆息止みがたし、またこの日は建長寺に入り仏国禅師を拝み正統庵は夕べに扉を閉じ、人住まざる夜はけだものの住家となるを見たり。いかにしかかる様ぞと問えば所領荘園いささかも無ければ子孫末流ありながら自住の庵さえ守りかねる事になれば本庵をいかにしても維持しようがないと語る。』
 神奈川県鎌倉市・建長寺は江戸時代初期までの度重なる火災や風水害で荒廃していた。後に沢庵和尚の進言で建長寺は徐々に再建し現在残っている伽藍となった。
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