日清戦争の後、日露の関係が悪化しつつある時、陸軍量抹廠(軍隊の食糧を用意するところ)では醤油が液体の状態では大量に中国大陸を兵隊が運搬するのに不便で何とかエキス状態としたいと考えていた。「醤油エキス」というのもあったがとても完全なものでなく、明治36年陸軍量抹廠は当時すでに発明家と知られていた鈴木藤三郎に工夫の依頼をしてきた。
鈴木藤三郎は即座にこれを引き受け醤油の製造改良方法を研究した。醤油は摂氏40度以上で加熱すると固形体になるがその滋養分であるたんぱく質は変質してしまうため,これを水で薄めても元には戻らないのである。そこで真空中に低温度で水分を蒸発させる方法で完成させた。
醤油エキス製造機(明治37年3月特許7202号)
すでに日露戦争が始まっていたので,製造機械を作り明治37年7月より一日300貫製造し戦地に送った。
氷砂糖の鈴木藤三郎と醤油の関係がここに始まった。後に福神漬も当然影響を受けることになった。
鈴木藤三郎伝より
鈴木藤三郎は即座にこれを引き受け醤油の製造改良方法を研究した。醤油は摂氏40度以上で加熱すると固形体になるがその滋養分であるたんぱく質は変質してしまうため,これを水で薄めても元には戻らないのである。そこで真空中に低温度で水分を蒸発させる方法で完成させた。
醤油エキス製造機(明治37年3月特許7202号)
すでに日露戦争が始まっていたので,製造機械を作り明治37年7月より一日300貫製造し戦地に送った。
氷砂糖の鈴木藤三郎と醤油の関係がここに始まった。後に福神漬も当然影響を受けることになった。
鈴木藤三郎伝より