大日本洋酒缶詰沿革史 42頁 1915年刊
福神漬は東京・下谷池之端野田清右門(商号酒悦)の創造に係わる。明治19年のころ蔬菜7種を醤油にて加味したる漬物を造り店舗にて販売したり、当時あたかも上野公園内に大日本水産会第一回品評会の開会があり、同会の陶山清猷が試みて、その着想と食味を覚え、同品評会の売店にて販売広告しても良いと許可を与えた。店主も直ちに同意して出品した運びになったが当時はまだ出来たばかりで田中芳男、河原田盛美等の案として七種の材料よりなる漬物ゆえこれを七福神に擬し,福神漬にすべしという説に賛成多く、店主もこの命名に喜びついに福神漬という名称に至った。
陶山清猷(すやませいゆう)とは著書に『有用藻譜 第1編』東京市麹町区飯田町6丁目24番地
田中芳男とは1875年、博物館、動物園などをもつ上野公園の設立に尽力した。1881年、大日本農会1882年、大日本水産会の創設に尽し、日本での農学と農林水産業の発展に貢献した。
河原田盛美(かわはらだもりよし)農商務省漁業技師として全国に近代漁業の啓蒙に努める。農業、漁業関係で多くの著作を残す
水産博覽會報告 事務顛末ノ部 ― 抜 粋 ―
( 明治十六年九月二十九日出板届、 農商務省農務局藏板、 国立国会図書館蔵 )
三月三日 太政官より 水産博覧会規則 地方官心得書 並 売店店規則の布達あり」但 品物販売店は之なくして 塲内に食堂茶店を許すも 5軒のみ 農商務より 本会適当の者を選び 事務を担任せしめ 其人名を農務局ヘ通報すべき旨を府県に通達す」
この水産博覧会の5軒の店舗中一つが酒悦の店だったのだろうか。
福神漬は東京・下谷池之端野田清右門(商号酒悦)の創造に係わる。明治19年のころ蔬菜7種を醤油にて加味したる漬物を造り店舗にて販売したり、当時あたかも上野公園内に大日本水産会第一回品評会の開会があり、同会の陶山清猷が試みて、その着想と食味を覚え、同品評会の売店にて販売広告しても良いと許可を与えた。店主も直ちに同意して出品した運びになったが当時はまだ出来たばかりで田中芳男、河原田盛美等の案として七種の材料よりなる漬物ゆえこれを七福神に擬し,福神漬にすべしという説に賛成多く、店主もこの命名に喜びついに福神漬という名称に至った。
陶山清猷(すやませいゆう)とは著書に『有用藻譜 第1編』東京市麹町区飯田町6丁目24番地
田中芳男とは1875年、博物館、動物園などをもつ上野公園の設立に尽力した。1881年、大日本農会1882年、大日本水産会の創設に尽し、日本での農学と農林水産業の発展に貢献した。
河原田盛美(かわはらだもりよし)農商務省漁業技師として全国に近代漁業の啓蒙に努める。農業、漁業関係で多くの著作を残す
水産博覽會報告 事務顛末ノ部 ― 抜 粋 ―
( 明治十六年九月二十九日出板届、 農商務省農務局藏板、 国立国会図書館蔵 )
三月三日 太政官より 水産博覧会規則 地方官心得書 並 売店店規則の布達あり」但 品物販売店は之なくして 塲内に食堂茶店を許すも 5軒のみ 農商務より 本会適当の者を選び 事務を担任せしめ 其人名を農務局ヘ通報すべき旨を府県に通達す」
この水産博覧会の5軒の店舗中一つが酒悦の店だったのだろうか。