年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

日銀総裁の艶聞 3

2008年03月12日 | 福神漬
日銀総裁の艶聞 3
明治43年8月23日の都新聞の記事で『川田小一郎の恩人』としてつぎのような記事があります。
 『日本銀行の川田小一郎氏も(富貴楼の)お倉をひいきにしてそこここに遊んでいましたが。川田氏は仲町芸者の吉次に思いをかけ是非妾にしようとしたが、吉次は有名な男嫌いが看板で誰がなんと言っても「男は嫌い」の一点張りでさすがの川田氏の金の力も何の効果なく、業を煮やして言い出した意地と惚れた弱みに富貴楼に来て、男嫌いの吉次を妾にしてくれれば川田はお倉を一生の恩人だとも言い出してひたすら頼んだ。お倉も他の女ならば手のないことだが相手は吉次とあっただけに一寸困ってしばらく考えてよろしいと引き受けた上、吉次を訪ねいやだと言う吉次を無理やり納得させ川田の邸に妾として上げ、二人の子供まで生んだと言う。かくして日銀総裁であった川田はこれを恩としてますます富貴楼をひいきにしたという。』
富貴楼のお倉も上野谷中に縁がある。仲町芸者とは池之端仲町のことだろう。川田は明治29年に死去しているのでいつごろの話だろうか。福神漬は明治19年前後に上野池之端の酒悦によって創生された。福神漬の普及には池之端の人脈の影響と待合茶屋でも出されただろう。郵船に積まれた福神漬の経緯は事実があるがなかろうが郵船社員には幹部の行状が新聞紙上によって報道され池之端といえば三菱・郵船となっていて記憶にのこっていたのではあるまいか。日本郵船歴史博物館の人の話ではカレーライスと福神漬の話は郵船社員には広く知れていた話であるということである。しかし文献はないということである。
 第一次大戦にインド洋で行方不明となった常陸丸の記憶が日本郵船百年史の記事募集で福神漬の話を思い出させたのではないのだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする