横山大観記念館
日本画家横山大観の住居あとに記念館がある。東京都台東区池之端1-4-24にあるが住居表示が明治のときは下谷区茅町2-19と大観の孫に当たる方に教えていただいた。その方のいわれるにはどなた方の茶室あとを借地し、後に購入したようである。横山大観が、ここに住居を構えたのは、明治42年(1909)のことです。
台東区によると
池之端七軒町の南隣の茅町二丁目21番地には日本画家の大御所、横山大観が住んでいた。今は大観記念館となっている。明治40年頃の大観が友人へ当てた手紙に、「観月橋を西に渡り、通りを右に行った3軒目に暮らしている」と記している。となると大観の親族の方と台東区の地番が異なる。
池之端御前と言われた福地源一郎氏は茅町2-18に住んでいて2-16には浅田正文が住んでいた。福地氏は後に浅田正文に土地を売っており、横山大観が購入した茶室跡は浅田正文の茶室だったのだろうか。浅田が茶をたしなんだ文献はなかったが福地源一郎は茶をたしなんでいた様である。福神漬の由来を書いた鶯亭金升は福地氏の土地に間借りしていた。今の東天紅は浅田正文邸の跡地のような気がする。
横山大観の孫に当たる方の話では台東区は戦災で焼失したためも前に誰が住んでいたか解りませんということです。でも福地源一郎は隣ということがわかった。
日本画家横山大観の住居あとに記念館がある。東京都台東区池之端1-4-24にあるが住居表示が明治のときは下谷区茅町2-19と大観の孫に当たる方に教えていただいた。その方のいわれるにはどなた方の茶室あとを借地し、後に購入したようである。横山大観が、ここに住居を構えたのは、明治42年(1909)のことです。
台東区によると
池之端七軒町の南隣の茅町二丁目21番地には日本画家の大御所、横山大観が住んでいた。今は大観記念館となっている。明治40年頃の大観が友人へ当てた手紙に、「観月橋を西に渡り、通りを右に行った3軒目に暮らしている」と記している。となると大観の親族の方と台東区の地番が異なる。
池之端御前と言われた福地源一郎氏は茅町2-18に住んでいて2-16には浅田正文が住んでいた。福地氏は後に浅田正文に土地を売っており、横山大観が購入した茶室跡は浅田正文の茶室だったのだろうか。浅田が茶をたしなんだ文献はなかったが福地源一郎は茶をたしなんでいた様である。福神漬の由来を書いた鶯亭金升は福地氏の土地に間借りしていた。今の東天紅は浅田正文邸の跡地のような気がする。
横山大観の孫に当たる方の話では台東区は戦災で焼失したためも前に誰が住んでいたか解りませんということです。でも福地源一郎は隣ということがわかった。