年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

池之端御前の末路

2008年03月29日 | 福神漬
池之端御前の末路
池之端御前とか吾曹先生といわれていた福地桜痴(福地源一郎)の芸者遊びはずいぶん古いもので彼の末期がさびしかった原因の一つでもある。福地の女好きは数を自慢とする粋人でもあった。70近き晩年まで一日として女から離れられない生活であった。
 こんな道楽で花柳界に捨てた金も多く、その末は東京府会の勢力を利用して賄賂を取ったかどで裁判所に引きだされた。(無罪)これが公人としての失脚のはじめで、晩年の桜痴を見ると今昔の感にたえないものがある。(伊藤痴遊全集第13巻)
 池之端の家は散々に金を撒いた結果、隣人の浅田正文の手に渡り、一時は住む家もなかった。明治20年代初めの池之端で開かれた茶会では福地の交友関係の広さがわかる。彼の茶室後が今の横山大観記念館の一部となっている。
 台東区中央図書館の郷土史料のところで大正元年の地籍台帳によると下谷区茅町2丁目15から18までの地主は浅田正文となっている。2-15は120坪、2-16は約137坪、2-17は168坪、2―18は約184坪、合計約609坪となり地価8520円となっている。しかし昭和10年の台帳ではすでに浅田の名義ではなく2-18は分割され2-18-2は横山秀麿(横山大観)の名義となっている。横山大観が茅町に移ったのは明治42年頃なのでいかなる事情が周辺であったのだろうか。
 
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