干潟町史から
今は千葉県旭市となってしまった干潟町の歴史から
花香安精 1782~1842)房総における和算家
花香恭法 安精の次男として生まれるが兄の死により家を継ぐ。はじめの名を弘一郎。
家は代々名主であった。江戸に出て藤森弘庵に漢学を学び千葉弥九朗に剣を学び幕府の士となり御徒目付けとなる。高野長英と相知り、一時かくまう。明治維新後裁判所に勤めたり官員にもなる。明治13年銚子町に第百四十四銀行を創立し、頭取となる。明治31年死去。68歳
花香伝右衛門
佐原市津宮で嘉永6年1月15日生まれ。萬歳の花香恭法の養子となり伝右衛門を襲名する。伝右衛門は花香安精の通称であった。明治5年萬歳村の戸長となる。明治29年千葉県議会議員に当選する。昭和13年死去。享年86歳。
花香恭次郎が恭法の養子となった時、既に恭法の養子に伝右衛門がなっていた。この間の事情はわからないが長井筑前守昌言の援助があったのだろう。河野広中の谷中の碑文から読み取れる。
今は千葉県旭市となってしまった干潟町の歴史から
花香安精 1782~1842)房総における和算家
花香恭法 安精の次男として生まれるが兄の死により家を継ぐ。はじめの名を弘一郎。
家は代々名主であった。江戸に出て藤森弘庵に漢学を学び千葉弥九朗に剣を学び幕府の士となり御徒目付けとなる。高野長英と相知り、一時かくまう。明治維新後裁判所に勤めたり官員にもなる。明治13年銚子町に第百四十四銀行を創立し、頭取となる。明治31年死去。68歳
花香伝右衛門
佐原市津宮で嘉永6年1月15日生まれ。萬歳の花香恭法の養子となり伝右衛門を襲名する。伝右衛門は花香安精の通称であった。明治5年萬歳村の戸長となる。明治29年千葉県議会議員に当選する。昭和13年死去。享年86歳。
花香恭次郎が恭法の養子となった時、既に恭法の養子に伝右衛門がなっていた。この間の事情はわからないが長井筑前守昌言の援助があったのだろう。河野広中の谷中の碑文から読み取れる。