福神漬の語り部
福神漬の命名の由来の語り部である鶯亭金升の人物研究はあまりなされていないが早稲田大学演劇博物館発行の「演劇研究・鴬亭金升研究 小山郁子」がある。
演劇研究 1993年第17号から20号にかけて載っている。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)でも普通の人物事典でも鶯亭金升の経歴は「主に新聞記者として活躍し、落語・俗曲・都々逸・狂歌・狂句・雑俳に関する著書がある。市川佐団次や小山内薫も彼に師事した。明治の文壇や芸能界の事情に精通している。」となっている。この様な経歴の人物が突然三菱のビルで開かれた会合で福神漬の思い出話を出したのだろうか。
同じく缶詰業界の本(大正4年発行)大日本洋酒缶詰沿革史 42頁
「福神漬は東京・下谷池之端野田清右門(商号酒悦)の創造に係わる。明治19年のころ蔬菜7種を醤油にて加味したる漬物を造り店舗にて販売したり、当時あたかも上野公園内に大日本水産会第一回品評会の開会があり、同会の陶山清猷が試みて、その着想と食味を覚え、同品評会の売店にて販売広告しても良いと許可を与えた。店主も直ちに同意して出品した運びになったが当時はまだ出来たばかりで田中芳男、河原田盛美等の案として七種の材料よりなる漬物ゆえこれを七福神に擬し,福神漬にすべしという説に賛成多く、店主もこの命名に喜びついに福神漬という名称に至った。」となっている。明治19年は16年の誤植と思われる。上野の第一回水産博覧会は明治16年3月より開催されている。
多くのカレー本の福神漬創生年が明治19年説となっているのがここから由来していると思われる。
鴬亭金升の話や缶詰業界の本から福神漬が梅亭金鵞のところに酒悦主人が缶詰に入れて持ってきたのは明治16年夏頃から18年夏の間となろう。
福神漬の命名の由来の語り部である鶯亭金升の人物研究はあまりなされていないが早稲田大学演劇博物館発行の「演劇研究・鴬亭金升研究 小山郁子」がある。
演劇研究 1993年第17号から20号にかけて載っている。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)でも普通の人物事典でも鶯亭金升の経歴は「主に新聞記者として活躍し、落語・俗曲・都々逸・狂歌・狂句・雑俳に関する著書がある。市川佐団次や小山内薫も彼に師事した。明治の文壇や芸能界の事情に精通している。」となっている。この様な経歴の人物が突然三菱のビルで開かれた会合で福神漬の思い出話を出したのだろうか。
同じく缶詰業界の本(大正4年発行)大日本洋酒缶詰沿革史 42頁
「福神漬は東京・下谷池之端野田清右門(商号酒悦)の創造に係わる。明治19年のころ蔬菜7種を醤油にて加味したる漬物を造り店舗にて販売したり、当時あたかも上野公園内に大日本水産会第一回品評会の開会があり、同会の陶山清猷が試みて、その着想と食味を覚え、同品評会の売店にて販売広告しても良いと許可を与えた。店主も直ちに同意して出品した運びになったが当時はまだ出来たばかりで田中芳男、河原田盛美等の案として七種の材料よりなる漬物ゆえこれを七福神に擬し,福神漬にすべしという説に賛成多く、店主もこの命名に喜びついに福神漬という名称に至った。」となっている。明治19年は16年の誤植と思われる。上野の第一回水産博覧会は明治16年3月より開催されている。
多くのカレー本の福神漬創生年が明治19年説となっているのがここから由来していると思われる。
鴬亭金升の話や缶詰業界の本から福神漬が梅亭金鵞のところに酒悦主人が缶詰に入れて持ってきたのは明治16年夏頃から18年夏の間となろう。