年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

花香恭次郎の有名度

2009年10月12日 | 福神漬
花香恭次郎の有名度
鶯亭金升日記には花香恭次郎は有名な人と書いてあった。葬儀の模様から事実であるとわかった。明治23年8月13日 読売新聞より
花香恭次郎の葬儀
コレラ病に罹り、突然亡くなった花香恭次郎の遺骸は予定どうり一昨11日午後2時麻布の河野広中邸より出棺し神式をもって谷中天王寺に葬られた。
 先頭には「動議貫心肝」「忠義真骨髄」と大書してある旗二流および紅白の小旗8本、次に大同新聞社・両国中村楼・在京大同倶楽部員諸氏より寄贈された造花数十基、次に前駆として稲垣示・龍野周一郎・井上三郎・石塚重平・八木原繁祉・山本幸彦の六氏・次に祭官権中教正竹先嘉通氏、次に唐棺。次に祭官権中教佐々木幸見、同戸田忠幸の両氏、次に楽人三名、次に「仁者以存亡不易志」「義者以盛衰不改節」と染め出してある大旗二流、次に銘旗、次に霊柩、その前後に青年自由党弾鋏義会より送られた「慷慨追悼(こうがいついとう)」の文字を記してある大旗六流、次に呉床、次に墓標、次に喪主河野広中氏、次に花香氏の親戚・政友等、車列を乱さず日吉町大同クラブ前を過ぎ、このところに待ち受ける人々その途中から葬列に加わる人少なからず。午後5時谷中天王寺に着き葬儀となる。花香氏の遺言に従い故田母野秀顕氏の墓側に埋葬し、それより植木枝盛、末広重恭、坂崎斌、青年自由党総代後藤周佐等諸氏の弔詞弔詩の朗読があった。葬式は全て終わって帰途にのぼったのは午後7時頃だった。又市中楽隊一組(14名)行列の先にたち処々に悲壮悲嘆の音楽を演奏し、会葬者に悲哀の情を切にならしめた。
 この日の会葬者は四百四十余名にてその主なる人々は大井憲太郎・内藤魯一・植木枝盛・杉田定一・田中賢道・山田武甫・杉浦重剛・鈴木昌司・末松三郎・大江卓・末広重恭・菊池侃二・上田農夫・綾井武夫・及び青年自由党総代・青年自由同盟倶楽部総代弾鋏義会総代等にて後藤・板垣両伯爵にも特に代理をもって弔意を表したという。

鶯亭金升はこの自由民権運動家や政治家連中の中で團團珍聞の主筆でなく花香恭次郎の親族として参列していたと思われる。福島事件の裁判中、福島では子供たちが田母野や花香の演説を真似た遊びが流行っていたという。また高等法院で裁判中、福島事件の若手の被告人の浮世絵が売り出されていたようである。
 今の政治家も亡くなると党本部や国会を遺体を載せた車で訪れているが、明治の20年代も同じことを行っている。車列とは人力車の列と思われる。
コメント
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