干潟町史から2
今は千葉県旭市となってしまった干潟町の歴史から
花香恭次郎(自由民権運動家)
安政二年(1855年)江戸本郷駒込、戸田伊豆守氏栄の邸にて出生と伝えられる。父の戸田氏栄はペリー来航時の浦賀奉行を勤め、幕府の要職にあった人だった。(恭次郎出生当時幕府の閑職に左遷されていた。2歳ころ父は大阪で死す。)
万延元年(1860年)萬歳村の花香恭法に養育をされるようになる。成長するにしたがって恭法の深川の邸に移り住む。この時養子になったと思われる。
慶應2年吉川慎堂につき漢文の素読を学ぶ。同3年村上英俊について仏書を学ぶ。
日本の「仏学始祖」と呼ばれる村上英俊(文化八,1811~明治二十三,1890)明治元年下総佐倉に至り漢儒続徳太郎の門に入る。明治2年東京に帰り開成学校に通学しフランス語を学ぶ。明治4年、箕作秋坪の家塾に入り英語を学ぶ。その後共慣義塾(南部藩の授業料の安い学校)に移る。(明治6年頃兄長井昌言死す)
明治9年四通社に入り問答新聞(京橋区南金六・今の銀座8丁目付近にあった)の編集に従事する。10年5月同社を退社し(西南役に感じることがあって)6月より宮城地方を巡り歩きする。
友人と謀り福島町に新聞社(福島自由新聞)を創設しその編集に従事した。明治12年新聞記事が讒謗律(言論弾圧の法令)に触れて禁獄50日の処せられた。
明治13年同社を去り、福島地方を周遊し国事を談ずる。15年福島県会の書記となり、その会議録の報告書を作り四方に配布する。すると時の福島県令三島通庸を侮辱するところありとして重禁固九ヶ月に処せられた。恭次郎は河野広中の頭脳的存在として、福島事件で大きな役割を果たしている。かれの主張は河野広中より急進的であった。
明治16年自由党福島事件が起こると、その一味として捕らえられ、東京高等法院にて裁判にかけられ、軽禁獄6年の刑を宣告された。明治22年憲法発布による恩赦によって出獄。
明治23年7月第一回衆議院議員選挙千葉3区(千葉県香取郡)に自由党の候補として立候補するが3位となり落選する。同年8月コレラに罹り7日に死す。同時大同倶楽部員、河野広中が施主となり谷中墓地に葬られた。享年35歳であった。
花香恭次郎の経歴からペリー来航の日本の危機を救った父戸田伊豆守の意思が伝わったような気がする。大正12年7月関東大震災の2ヶ月前、三菱のビル内で開催された缶詰協会の福神漬品評会の会合で鶯亭金升が福神漬の思い出を話したのも何かの導きがあったのだろうか。
三菱・日本郵船とカレーライスに福神漬はどの様な記憶があったのだろうか?
今は千葉県旭市となってしまった干潟町の歴史から
花香恭次郎(自由民権運動家)
安政二年(1855年)江戸本郷駒込、戸田伊豆守氏栄の邸にて出生と伝えられる。父の戸田氏栄はペリー来航時の浦賀奉行を勤め、幕府の要職にあった人だった。(恭次郎出生当時幕府の閑職に左遷されていた。2歳ころ父は大阪で死す。)
万延元年(1860年)萬歳村の花香恭法に養育をされるようになる。成長するにしたがって恭法の深川の邸に移り住む。この時養子になったと思われる。
慶應2年吉川慎堂につき漢文の素読を学ぶ。同3年村上英俊について仏書を学ぶ。
日本の「仏学始祖」と呼ばれる村上英俊(文化八,1811~明治二十三,1890)明治元年下総佐倉に至り漢儒続徳太郎の門に入る。明治2年東京に帰り開成学校に通学しフランス語を学ぶ。明治4年、箕作秋坪の家塾に入り英語を学ぶ。その後共慣義塾(南部藩の授業料の安い学校)に移る。(明治6年頃兄長井昌言死す)
明治9年四通社に入り問答新聞(京橋区南金六・今の銀座8丁目付近にあった)の編集に従事する。10年5月同社を退社し(西南役に感じることがあって)6月より宮城地方を巡り歩きする。
友人と謀り福島町に新聞社(福島自由新聞)を創設しその編集に従事した。明治12年新聞記事が讒謗律(言論弾圧の法令)に触れて禁獄50日の処せられた。
明治13年同社を去り、福島地方を周遊し国事を談ずる。15年福島県会の書記となり、その会議録の報告書を作り四方に配布する。すると時の福島県令三島通庸を侮辱するところありとして重禁固九ヶ月に処せられた。恭次郎は河野広中の頭脳的存在として、福島事件で大きな役割を果たしている。かれの主張は河野広中より急進的であった。
明治16年自由党福島事件が起こると、その一味として捕らえられ、東京高等法院にて裁判にかけられ、軽禁獄6年の刑を宣告された。明治22年憲法発布による恩赦によって出獄。
明治23年7月第一回衆議院議員選挙千葉3区(千葉県香取郡)に自由党の候補として立候補するが3位となり落選する。同年8月コレラに罹り7日に死す。同時大同倶楽部員、河野広中が施主となり谷中墓地に葬られた。享年35歳であった。
花香恭次郎の経歴からペリー来航の日本の危機を救った父戸田伊豆守の意思が伝わったような気がする。大正12年7月関東大震災の2ヶ月前、三菱のビル内で開催された缶詰協会の福神漬品評会の会合で鶯亭金升が福神漬の思い出を話したのも何かの導きがあったのだろうか。
三菱・日本郵船とカレーライスに福神漬はどの様な記憶があったのだろうか?