年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬物語 11

2009年10月31日 | 福神漬
日清戦争と醤油
日清戦争の後、日露の関係が悪化しつつある時、陸軍量抹廠(軍隊の食糧等を用意するところ)では醤油が液体の状態では大量に中国大陸を兵隊が運搬するのに何かと不便で液状でない状態にして運搬したいと考えていた。「醤油エキス」というのもあったがとても完全なものでなく、明治36年陸軍量抹廠は当時すでに発明家と知られていた鈴木藤三郎に工夫の依頼をしてきた。
 鈴木藤三郎は即座にこれを引き受け醤油の製造改良方法を研究した。醤油は摂氏40度以上で加熱すると固形体になるがその滋養分であるたんぱく質は変質してしまうため,これを水で薄めても元には戻らないのである。そこで真空中に低温度で水分を蒸発させる方法で完成させた。
醤油エキス製造機(明治37年3月特許7202号)
すでに日露戦争が始まっていたので,製造機械を作り明治37年7月より一日300貫製造し戦地に送った。

鈴木藤三郎伝より
鈴木藤三郎は明治22年(1989)静岡県森町から東京の小名木川に砂糖の工場を移して鈴木精糖所と名付けた。その会社が明治29年に資本金30万円の日本精糖株式会社となり、明治39年には資本金400万円の我が国第一の精糖会社となった。日本精糖が発展すると競合会社が現れ、激しい販売合戦をはじめ互いに苦しんでいた。
 日本精糖会社では社長の鈴木藤三郎が台湾精糖の経営や醤油の改良に没頭しているスキに経営を任せていた人に株を買い占められ、明治39年7月の臨時株主総会で自ら辞任してしまった。その前年にすでに台湾製糖が安定した経営になったのを見届けて日本精糖社長を辞任した。辞任後、鈴木藤三郎は製塩法や醤油醸造の改良に向かった。日本精糖株式会社は現在の大日本明治精糖株式会社の前身である。
 鈴木藤三郎は「醤油エキス」の製造法の研究中に、その原料となる醤油そのものの製法の研究をした。すると江戸時代から当時までほとんど進歩がなく、醤油醸造に一年半から2年の歳月かかかるのを知って、戦争が長引いたら醤油エキスを作るための醤油そのものが尽きてしまうだろうと考えた。そして、間もなく醤油を短期間で製造する促成醸造方法(明治37年4月特許7247号)を発明した。
コメント
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