年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬物語 6

2009年10月26日 | 福神漬

 名前の由来である七福神とは、江戸時代・享和の頃(1801-1804)から七福神めぐりがさかんとなり上野近辺の谷中七福神がその発祥地と言われます。
また福神漬に入っているナタ豆(刀豆)が毘沙門天の持っている宝剣の形に似ているとの説があります。上野は七福神めぐりの最古の地域でいまでもかなりの人が正月早々、地図を持ち田端の東覚寺か上野の弁天堂から始めます。上野の弁天堂と広小路の酒悦とはごく近く、漬物としてご当地ブランドとしては最適の名前だったでしょう。
上野護国院〔大黒天〕のパンフレットより
江戸時代から正月に七福神詣でといって上野近辺の七福神に詣でることが盛んになりました。これらの神様を福の神としたのが江戸幕府初めの宗教顧問の一人であった上野東叡山の開祖天海僧正であり、経典(仁王経)の七難即滅・七福即生の文に基づいて七福神の信仰を勧めました。
 後に徳川家康は絵師(狩野探幽)に七福神の絵を描かせ。これが評判となって宝船に乗った七福神が普及しました。
宝船とは
江戸時代初期から、七福神を乗せた宝船を、正月2日、枕の下に入れて寝ると、吉夢を見るということが、盛んにおこなわれるようになりました。宝船のことを「おたから」といい、おたからを江戸の町に売り歩くのを、お宝売りと言ったそうです。
 初夢の中に『なす』がありますが『物事を成す』と江戸時代初期温室栽培の無かったころ今の江東区砂町で堆肥の発酵熱で促成栽培をしていて、冬場に非常に高価な茄子がありました。冬季にナスを食べる夢は非常な贅沢で吉兆な夢とされました。れんこんはおせち料理にもあるように『先が見える=未来が明るい』とされ、たけのこは雨後のたけのこというくらい良く成長する意味があるのでしょうか。しかし、あまり竹の子の入った福神漬は知りません 

大根は練馬 言うまでも無い

茄子は駒込付近。駒込付近は土物の野菜の産地で江戸に幕府が移転してきて一番早く市場が出来た所でまた近所の滝野川三軒家は種子販売の集積地でもあった。

レンコンは不忍池(しのばすのいけ)が産地で『江戸砂子』享保7年によると江都第一の蓮池なりと記述されている。

しそは千住。千住にあった市場から入った。
しょうがは谷中 今でも谷中しょうがの名前は知られている。現在の台東区谷中でなく荒川区の谷中本村と新堀村・日暮里駅周辺が産地であった。

ナタ豆は葛西。しかしどこでも栽培されていたらしい。
福神漬に入っている変な形の野菜はナタ豆の鞘(さや)の部分です。ナタ豆の効能は色々伝えられていますがどうなんでしょうか?
ナタ豆の花は根元の方から咲いてゆき次に末の方から根元に向かって咲くので『もとに帰る』という意味で昔は旅立ちに祝いの膳にナタ豆をつけたところがあったそうで、四国八十八箇所めぐりの人はなた豆を二個お守りとして持っていったそうです。(たべもの語源事典・清水圭一編)
若ボケの予防に効果的な刀豆(ナタ豆)
さやが大きく堅いので、その形から鉈(なた)が連想されることから名づけられたなた豆(ナタ豆)。刀豆には、良質なタンパク質以外にも、アミノ酸、ミネラル食繊維、サポニン、コンカナバリンA、ポリフェノール、鉄分などが含まれており、健康茶として人気がある。腎機能の向上や、若ボケの予防、ストレス解消などに効果があるといわれている。また,避妊に利くとか、男性が食べると精力減退の恐れがあると書いてあるものがあります。

本朝食鑑によると(ナタ豆の)若い時は鞘付きのまま塩漬したり糟漬にして香の物とするがそれ以外に用いるに適しないと書いてあります。江戸時代はかなり作られていたようですが今では福神漬用しか用途がありません。最近は健康食品として宣伝しているようです。童話の『ジャックとまめの木』の豆はナタ豆のことと記述している人がいます。
とにかく本当にナタ豆はなた(刀)の形に似ています。


しいたけの産地は不明 干ししいたけは軽いので精進料理が盛んであった池之端近辺では手にいれ易かったかもしれない。
竹の子は目黒川水運を利用して、目黒が産地であった孟宗竹の竹の子を運んだと思われる。『江戸の野菜』野村圭佑著より

コメント
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