三菱レンガ街で
大正12年7月、大手町にある三菱のビルの中で日本の缶詰協会で会合がありました。このときの様子が機関紙「缶詰時報」に載っています。
『大正11年8月に創刊された缶詰時報は、今月号で1000号に達した。この年が創刊になっている雑誌には「文藝春秋」「アサヒグラフ」「エコノミスト」「科学画報」「職業婦人」などがあるが、このうち、現在でも刊行中のものは「文藝春秋」「エコノミスト」などで数少ない。』缶詰時報は今1000号を超えている。
このときの出席者鶯亭金升が福神漬の命名の話をし、機関誌に載りました。
缶詰時報 第二巻
福神漬の昔と今
陸軍糧秣廠 丸本彰造
『なた豆はお胡子さんの耳たぼで、茄子は布袋さんのお腹を形どるなどと7種の野菜を集めて七福神、それを福神漬と名付けたもので,その昔江戸時代、上野東叡山寛永寺の坊さんが池之端の酒悦主人に廃物利用の漬物として教え、かくのごとく名付けたものである』と私は密かに伝え聞いておりましたが、今日の研究会で東京毎日新聞の鶯亭金升(永井総太郎)氏によってそれが誤りであることを初めて知りました。
何でも氏のお話によれば福神漬の名付け親は○○珍聞(明治10年創刊,40年に廃刊した面白い新聞)の記者,梅亭金鵞先生(江戸時代名高い松亭金水先生の門人)であって先生が小石川指ヶ谷に住んで○○珍聞の編集をしたり、小説を書いたりしていたが、時は明治18年、時節は丁度夏の半ばころ、今から数えてまる38年前の昔、酒悦の主人が、なた豆と紫蘇と大根の三品を程よく味付けて缶詰にしたものを持ち来たり、これを売りたい、なんとか名付けを頼みますと開缶した。
梅亭金鵞先生試食一番『これはうまい,食を進める、栄養になる、そして本当に経済だ、これぞ誠に福の神に好かれる漬物で身体は丸々ふとり、お家繁盛万々歳』と福神漬と名付けたもので、なお酒悦主人は梅亭先生に頼んで木版の綺麗な引札を戸毎に配って広告したものであると。
そしてこのことは鶯亭氏が梅亭先生の門人であって丁度その時試食し引札のすり方も手伝った確かな生き証人で、その時の引札を持ってこなかったのが残念であると鶯亭氏は回想的な眼差しで語られ、また酒悦さんが福神漬缶詰の祖先であることはこうした由来から起こっているが元来酒悦さんは江戸時代から香煎と屠蘇、その他祝儀の熨斗や酒の肴のウニやカラスミのような各国名産品売って居ったもので酒悦というお目出度い名前もそんなことから始まったのであろうと鶯亭氏は付け加えたられたが、福神漬が酒悦から出た、それが姓名判断から言って目出度いことのように思われるのであります。』
記事によると酒悦の主人は最初から福神漬を缶詰にしていたことが解る。この当時でも上野東叡山寛永寺の話がでているので了翁禅師の話も知られていたのだろう。廃物利用とは寛永寺勧学講院で寮生に与えられたおかずは野菜クズの漬物であった。
鶯亭氏は東京毎日新聞の記者であったためこの話はかなり広まっている。今一般にカレー本に福神漬の話がここから引用されている。引札とは今のチラシ広告のことであって、福神漬を宣伝する必要があったためで、漬物は自給の時代では購入させるのは何か目新しいことが必要であったためで、本当に知られるには時間がかかった。
梅亭金鵞は『七編人』等の著書で知られた幕末・明治中期の戯作者である。
福神漬がかなり一般に普及した大正末期に東京毎日新聞の鶯亭金升(永井総太郎)氏が急に語りだしたのは三菱のレンガ街が色々明治の過去を思い出させたのだろう。
大正12年9月の関東大震災でレンガ造りの建物の被害は大きく、日本建築の主流はレンガ造りからコンクリート造りになっていた。新しくなった三菱一号館は中に入ると明治の色々なことが思い出されます。
大正12年7月、大手町にある三菱のビルの中で日本の缶詰協会で会合がありました。このときの様子が機関紙「缶詰時報」に載っています。
『大正11年8月に創刊された缶詰時報は、今月号で1000号に達した。この年が創刊になっている雑誌には「文藝春秋」「アサヒグラフ」「エコノミスト」「科学画報」「職業婦人」などがあるが、このうち、現在でも刊行中のものは「文藝春秋」「エコノミスト」などで数少ない。』缶詰時報は今1000号を超えている。
このときの出席者鶯亭金升が福神漬の命名の話をし、機関誌に載りました。
缶詰時報 第二巻
福神漬の昔と今
陸軍糧秣廠 丸本彰造
『なた豆はお胡子さんの耳たぼで、茄子は布袋さんのお腹を形どるなどと7種の野菜を集めて七福神、それを福神漬と名付けたもので,その昔江戸時代、上野東叡山寛永寺の坊さんが池之端の酒悦主人に廃物利用の漬物として教え、かくのごとく名付けたものである』と私は密かに伝え聞いておりましたが、今日の研究会で東京毎日新聞の鶯亭金升(永井総太郎)氏によってそれが誤りであることを初めて知りました。
何でも氏のお話によれば福神漬の名付け親は○○珍聞(明治10年創刊,40年に廃刊した面白い新聞)の記者,梅亭金鵞先生(江戸時代名高い松亭金水先生の門人)であって先生が小石川指ヶ谷に住んで○○珍聞の編集をしたり、小説を書いたりしていたが、時は明治18年、時節は丁度夏の半ばころ、今から数えてまる38年前の昔、酒悦の主人が、なた豆と紫蘇と大根の三品を程よく味付けて缶詰にしたものを持ち来たり、これを売りたい、なんとか名付けを頼みますと開缶した。
梅亭金鵞先生試食一番『これはうまい,食を進める、栄養になる、そして本当に経済だ、これぞ誠に福の神に好かれる漬物で身体は丸々ふとり、お家繁盛万々歳』と福神漬と名付けたもので、なお酒悦主人は梅亭先生に頼んで木版の綺麗な引札を戸毎に配って広告したものであると。
そしてこのことは鶯亭氏が梅亭先生の門人であって丁度その時試食し引札のすり方も手伝った確かな生き証人で、その時の引札を持ってこなかったのが残念であると鶯亭氏は回想的な眼差しで語られ、また酒悦さんが福神漬缶詰の祖先であることはこうした由来から起こっているが元来酒悦さんは江戸時代から香煎と屠蘇、その他祝儀の熨斗や酒の肴のウニやカラスミのような各国名産品売って居ったもので酒悦というお目出度い名前もそんなことから始まったのであろうと鶯亭氏は付け加えたられたが、福神漬が酒悦から出た、それが姓名判断から言って目出度いことのように思われるのであります。』
記事によると酒悦の主人は最初から福神漬を缶詰にしていたことが解る。この当時でも上野東叡山寛永寺の話がでているので了翁禅師の話も知られていたのだろう。廃物利用とは寛永寺勧学講院で寮生に与えられたおかずは野菜クズの漬物であった。
鶯亭氏は東京毎日新聞の記者であったためこの話はかなり広まっている。今一般にカレー本に福神漬の話がここから引用されている。引札とは今のチラシ広告のことであって、福神漬を宣伝する必要があったためで、漬物は自給の時代では購入させるのは何か目新しいことが必要であったためで、本当に知られるには時間がかかった。
梅亭金鵞は『七編人』等の著書で知られた幕末・明治中期の戯作者である。
福神漬がかなり一般に普及した大正末期に東京毎日新聞の鶯亭金升(永井総太郎)氏が急に語りだしたのは三菱のレンガ街が色々明治の過去を思い出させたのだろう。
大正12年9月の関東大震災でレンガ造りの建物の被害は大きく、日本建築の主流はレンガ造りからコンクリート造りになっていた。新しくなった三菱一号館は中に入ると明治の色々なことが思い出されます。