福神漬とは何かという基本に戻ると。
一般の食品の由来を書いてある本では明治19年に上野広小路・酒悦の主人が創製し、七種の野菜が入っていたので当時盛んだった七福神めぐりからとって福神漬と命名されたといわれています。この福神漬がJAS法(日本農林規格法・農林物資の規格化及び品質表示の適正化に関する法律)に法律用語としてあります。どうして福神漬が法律用語となったのでしょうか。
最初の日本農林規格(JAS)醤油漬の代表は福神漬でJAS規格にもある通り大根・ナス・しょうが・なた豆・レンコン・しそ・竹の子・もしくはしいたけを細刻したもの又はこれにしそのみ・もしくはゴマを配合したものを主原料とし、これに醤油又はアミノ酸液に砂糖・水あめ等の甘味料を加えた調味液に漬け込んだものをいう。(現在のJAS規格の福神漬には瓜・きゅうり・とうがらしも入っている・人工甘味料使用ではJAS規格外となる)
福神漬という漬物はよくカレーライスについて出されますので漬物が嫌いな人でも良く知られています。カレーライスの本には必ずといってよいくらい記述されていますがその福神漬が出来るまでどのような歴史があったかあまり知られていません。
上野の山
徳川家康の宗教顧問であった天海僧正は寛永2年(1625)に天海の発意で、寛永寺が草創されました。寛永寺が完成すると(東京都台東区)下谷村は門前町として栄えるようになります。江戸の人口増加、拡大に伴い奥州街道裏道沿いに発展し江戸時代は下級武士・商人の町として繁栄しました。上野広小路は、かつて下谷広小路とも呼ばれていた。下谷広小路は、現在の御徒町の松坂屋付近から上野公園入口までの現中央通りを呼ぶ俗称であった。明暦の大火(1657)の後、類焼を防ぐ目的で拡幅された。火除けのための空地が広小路と呼ばれ、上野(下谷)広小路は浅草・両国と共に三大広小路のひとつになりました。
また上野と両国の広小路は、すぐ取り払えることを条件に露店や見世物小屋の開店が許可され、娯楽の集積地となりにぎやかな繁華街となった。
酒悦は寛永寺参詣の人や商人達の茶店から発展していったのです。
江戸時代末期には上野広小路には香煎茶屋が3軒あって激しい競争していて、狂歌にも詠まれていた。しかし幕末の動乱で明治まで残ったのは酒悦だけであった。
たべもの語源辞典 清水圭一編では次のように記述されています。
「上野・酒悦の創業者は伊勢山田より江戸に出て『山田屋』を名乗り《うに・このわた》など、酒の肴になる珍味類も扱うようになりました。東海方面から乾物も仕入れ業とし、初めは本郷本町に店を構えたが、後に上野池之端に移った。その店は香煎屋といわれた。江戸末期の大名・旗本屋敷などでは縁起を担いで茶を用いない風習があった。町屋の人もこれにかぶれて婚礼などの祝儀には茶は仏事のものとして嫌がった。今日でも結婚式に桜湯を飲んでいるのはその名残である。
香煎屋は神仏両用のものを販売しているが一般に茶の代用品としては山椒や紫蘇(しそ)の実などの塩漬に白湯をさして飲んでいた。山田屋はやがて東叡山寛永寺の本坊である輪王寺の御門跡の白川宮から、「酒が悦ぶほどうまいもの」の意として「酒悦」の屋号を賜り、江戸名店の一つとなりました。」
上野公園
幕末慶応4年五月の上野戦争で荒れた寛永寺は明治6年上野公園に指名され整備されていった。
明治10年第一回内国勧業博覧会が上野公園で始まる。約3ヶ月間(一日平均2000名の見物客)
明治11年 明治天皇 上野公園の桜花観覧 文明開化のファッションを見るため見物人が集まった。
明治14年第2回内国勧業博覧会
明治15年博物館 上野動物園開業
上野寛永寺門前町から文明開化・欧化思想の先駆地となる。
明治16年第一回内国水産博覧会が開催されます。
この上野周辺の商業の変化に対応すべく、「酒悦」店主は新しい時代のあう新商品の開発をしていました。何年か試行錯誤ののち缶詰に入れる工夫し、保存輸送できるようになりました。言い伝えでは明治10年以後の話です。