年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

長井昌言は飯岡の領主だった。

2013年02月04日 | 福神漬
ようやく動きやすい気温となって図書館へ向かう。船橋市史近世編を読む。
平成10年3月 船橋市史 近世編 69頁
長井昌言は文久元年(1861年)小姓組番から使番となり、翌二年7月目付となったが同3年4月辞任、同3年6月寄合、神奈川奉行に就任し、同3年8月先手弓頭となった。同3年9月には騎兵頭へ昇進し、従五位下筑前守に叙任した。翌元治元年(1864年)堺町奉行となり、慶応元年11月京都町奉行へ移り、同12月辞任し寄合となる。同3年7月再び目付に就任し、同慶応4年(1868年明治と改元)正月幕府が倒壊し勤使並寄合となる。
(柳営補任)
屋敷は麹町裏二番町にあった。幕末期長井氏の知行地は12箇所会って1652石だった。飯岡町の知行地の石高は127石で二給だった。船橋市史の編纂者は長井昌言は実子か養子か不明であると記述していた。
 飯岡町史(昭和56年3月)945頁にも長井氏の知行のことは書いてあったが永井とあった。これは永井という飯岡の地名に引きずられたかもしれない。飯岡町(268石)の与力給地と永井氏(長井)の割合は6対4であったという。永井氏(長井)は寛永19年より飯岡が知行地だった。

長井昌言は鶯亭金升の父で、ぺりー来航時、米国国書を浦賀で受け取った戸田伊豆守氏栄の3男である。
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