上州安中藩は周りが海のない藩で海防とかの発想が乏しいと思われるが幕末に出た藩主板倉勝明(甘雨公)は病弱で学問を好んでいた。昌平坂学問所の林檉宇(はやし-ていう】、古賀侗庵( こが-どうあん)に学んでいたという。
安中市史によると明和4年藩主の老中就任に伴い加増され、安中藩は3万石となった。下総国23か村。(安中市史5)その内千葉の知行地が1万5千石で安中藩の借財返済に充てていたという。安中藩士 星野閏四郎は天保年間には高島流砲術家下曽根金三郎へ入門している。星野は弘化2年には川口で大砲3挺作らせた。ぺりーの浦賀来航から8年も前の話である。
北方の危機をいち早く昌平坂学問所の人脈から知っていて、蘭学から砲術まで甘雨公は藩士に学ばせていたようだ。