黒海のクリミアが危険な状態になっているが1853年ペリ-が浦賀に来た頃、クリミアがイギリス・フランス等の国とロシアが戦争状態になっていた。ペリ-の後、伊豆下田にロシアが開国通商を要求してきた。安政の大地震の大津波で船が破壊された。帰国を急ぐロシアは急遽船を日本で建造することとなり、下田に近くて外洋から発見されにくい戸田で造る事となった。ロシアが急いでいた原因はクリミア戦争で東洋でも戦争状態になるのを恐れていたためでした。今遥かかなたの地で紛争が起きているが何時アジアに紛争が回ってきても不思議ではない。日本の危機感の薄さは極東ということかもしれない。
戸田の地で本格的外洋航海出来る帆船が日本初めてで建造した。この時多くの船職人が養成された。東京水戸藩石川島造船所に勤めた人も多い。この辺りの話がどう福神漬の逸話に絡むかは解らない。