年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

高野長英の自決のあと講釈

2014年03月12日 | 福神漬
福神漬のエピソ-ドを追いかけていると、様々な疑問が増える。千葉万歳村に行った高野長英の滞在がなぜ短かったのだか疑問であった。内田弥太郎の和算弟子であった花香安精のところを逃亡先として推薦したのだろう。当時の花香家は万歳で関東取締役出役の
改革組合村の親村で二人代表の一人だった、当然万歳村の(天保水滸伝)勢力富五郎の処理(嘉永2年)は大変だったと想像できる。勢力の自決後、二足のわらじをはいていた銚子の博徒にとって万歳村のとなりにあった農村の改革運動をしていた大原幽学が目ざわりとなる。そこで難癖をつけ、農村改革を挫折させようと図ったのではあるまいか。そこに関東取締出役からの情報が花香家のもたらされていたのではないのだろうか。嘉永3年のことである。内田弥太郎は浦賀にいて浦賀奉行戸田氏栄のもと、下曽根金三郎(筒井政憲の次男・元南町奉行)の下で働いていた。下曽根と内田は蛮社の獄関連で鳥居耀蔵から狙われていた。また鳥居と戸田氏栄は印旛沼干拓工事で仕事を共にしていたが、戸田は工事の困難さを直言し、駿府町奉行に配転させられた。(井関隆子日記)
 戸田氏栄の5男鉄丸が花香家に養子に行ったのもこのような経緯の結果と推測できる。高野長英が嘉永3年10月末に死去したとき、藤岡屋日記にも高野の逃亡を手助けした内田の咎めがなかったことが不思議であると記述がある。福神漬の由来を語った鶯亭金升は戸田氏栄の3男で火付盗賊改の長井家の養子となった。このことを斡旋したのが筒井政憲だった。
南町奉行、関東取締役出役、火付盗賊改の組織の連絡網があったと想像できる。
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