薬の元となる草の研究をしていた人を江戸時代は本草家と呼んでいた。以前大垣に行ったとき、飯沼 慾斎(いいぬま よくさい)という大垣の本草家を知った。大垣藩蘭医江馬蘭斎とも関係があったようだ。
江戸の植物学 大場秀章著 東京大学出版会の本を読んでいたら、明治期の日本植物学者の代表であった田中芳男が明治8年刊行した飯沼 慾斎『新訂草木図説』編者となっている。
福神漬の命名で酒悦さん以外の説で田中芳男が出てきたことを思い出した。
大日本洋酒缶詰沿革史 42頁 1915年刊(大正4年)
福神漬は東京・下谷池之端野田清右門(商号酒悦)の創造に係わる。明治19年のころ蔬菜7種を醤油にて加味したる漬物を造り店舗にて販売したり、当時あたかも上野公園内に大日本水産会第一回品評会の開会があり、同会の陶山清猷が試みて、その着想と食味を覚え、同品評会の売店にて販売広告しても良いと許可を与えた。店主も直ちに同意して出品した運びになったが当時はまだ出来たばかりで田中芳男、河原田盛美等の案として七種の材料よりなる漬物ゆえこれを七福神に擬し,福神漬にすべしという説に賛成多く、店主もこの命名に喜びついに福神漬という名称に至った。
江戸の植物学 大場秀章著 東京大学出版会の本を読んでいたら、明治期の日本植物学者の代表であった田中芳男が明治8年刊行した飯沼 慾斎『新訂草木図説』編者となっている。
福神漬の命名で酒悦さん以外の説で田中芳男が出てきたことを思い出した。
大日本洋酒缶詰沿革史 42頁 1915年刊(大正4年)
福神漬は東京・下谷池之端野田清右門(商号酒悦)の創造に係わる。明治19年のころ蔬菜7種を醤油にて加味したる漬物を造り店舗にて販売したり、当時あたかも上野公園内に大日本水産会第一回品評会の開会があり、同会の陶山清猷が試みて、その着想と食味を覚え、同品評会の売店にて販売広告しても良いと許可を与えた。店主も直ちに同意して出品した運びになったが当時はまだ出来たばかりで田中芳男、河原田盛美等の案として七種の材料よりなる漬物ゆえこれを七福神に擬し,福神漬にすべしという説に賛成多く、店主もこの命名に喜びついに福神漬という名称に至った。