鬼平犯科帳大研究 火付盗賊改方研究会編
火付盗賊改を調べるのに軽い本であった。四谷から新宿にかけて、御先手組組屋敷があったという。もちろんドラマだから史実に忠実ということはないので気持ちは軽い。しかしあまり史実を曲げると、ウルサイ聴取者から指摘もあるだろう。架空の人物で時代設定をあいまいにすれば何とかなるだろうが長谷川平蔵ということでは時代がある程度決まってしまう。火付盗賊改は比較的自由に捜査が出来るので、作家にとって便利な設定かもしれない。
福神漬の命名の由来を語った鶯亭金升(長井総太郎)は幕府御先手組弓組の組頭の子孫で天保の時代、火付盗賊改は長井五右衛門昌純でした。昌純と同時期の南町奉行は筒井伊賀守政憲でした。昌純の死去後長井家の断絶を惜しみ、一人娘の養子を斡旋したのが筒井でした。
長井家の墓地は明治末頃まで四谷の方にありましたが東京市の都市計画で、郊外に墓地を移すこととなり、当時はまだ郊外の地であった五反田本立寺に改葬となりました。この本立寺の住職は函館五稜郭の戦闘に参加した新撰組の子孫でした。
日暮里の浄光寺にある福神漬顕彰碑の裏に名前がある山田箕乃助の親族に『喜兵衛』という人がいます。出典石井研堂(明治事物起源)彼は戊辰戦争最後の戦いで浦賀奉行与力だった中島三郎助と同日同場所で戦死しています。つまり五反田本立寺の先祖である新撰組中島登と喜兵衛は函館で会った可能性があります。喜兵衛の作った漬物を食べて戦闘に向かったのでしょうか。
長井家に養子に行った人はぺり-が浦賀に来たとき、米国国書を受け取った戸田伊豆守氏栄の3男でした(長井昌言)。ここからペリ-の黒船と福神漬の様々な話が始まります。