今では信じることが出来ないが明治の初めは小説(戯作)というものが否定されていた。歌舞伎等の演目でも実名とか事実とかを強調されていたとき、これに反することは弾圧されていた。多くの江戸期の戯作者は転向をするか転職をするしかなかったようだ。
このような時、戸田欽堂は小説を書いた。明治13年のことである。元大名だった彼の親族は身分に合わないと非難していたようだ。鶯亭金升が投書をしていた團團珍聞との関係も見えてきた。どうやら母子家庭だった長井家が團團珍聞との関係が何処で生じたか推測できるところまで来た。
明治の維新で幕臣だった長井昌言は多くの幕臣が静岡へ行ったにもかかわらず、江戸で三味線を習っていた。その後工部省鉄道局に勤めた。この記録は中々見つからなかったが国会図書館所蔵の官員録(明治6年)に記録があった。この就職には横浜の高島嘉右衛門の口ぞえがあったと思われる。高島の姉は戸田欽堂の母である。戸田欽堂の戯作(小説)は長井昌言の影響があると思われる。長井昌言は明治6年に死去し、戸田欽堂は明治23年に死去している。多くの福神漬の命名に関する人物も明治20年代に消えている。
食べ物に関する文献は記録されることもなく、あいまいな記憶に残る。