今年発刊された本でどうして下谷の町人たちが上野の山に親しみを感じていたか理解が出来なかったがこの本の奈倉哲三さんの文でようやく理解できた。
森鴎外著能久親王年譜という著書がある。ドイツに森と北白川宮(輪王寺宮)が留学していたし、台湾で北白川宮が死去したとき検視したのが森鴎外だったようだ。この年譜で明治14年から15年にかけて紀尾井の邸宅を新築するとき一時期だが北白川宮が東叡山に暫らく住んでいた。このとき下谷の町人と交流があったようである。福神漬の命名時期に当たる。
奈倉さんの記述で西軍から輪王寺宮へ京都へ行くように指令が出たが下谷の町人たちが宮の上京を阻止する嘆願書を出し、阻止した。このような経過があったことは知らなかった。明治の中ごろ歌舞伎公演で上野戦争を題材とした演目で下谷の人たちが団体で歌舞伎見物をした理由が理解できた。西軍の理不尽な要求が上野の山を守るという共通の感情があったのだろう。桜の上野はこのような隠れた下谷の意識の下の花見見物と言える。
『上野のお山』をめぐる江戸市民と官軍との攻防 奈倉哲三著