年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

遠い記憶

2018年04月27日 | 築地市場にて

高野長英の逃亡生活の中で死去した嘉永3年秋の前に千葉万歳村(現在の旭市万歳)に一時立ち寄った。これは関流和算家の花香家が内田弥太郎の弟子であったためである。養子になった人に恭の名前をつけたのはよほど内田恭(弥太郎)を尊敬していたのだろう。江戸時代の和算は今の茶道とか華道のような趣味的なもので能力があれば認められる世界であった。

 明治6年か7年に花香恭次郎が親族の言い伝えでは茨城県鳥栖村にいったことなっている。しかし地元の歴史研究者は鳥栖ではなく息栖だろうとしていた。東国三社で一番知られていない息栖神社だがこれは研究者の間違いではないかの疑いで鉾田市図書館で鳥栖村を調べたところ、鳥栖村(とりのす)には蛮社の獄の始まりとも言うべき無量寿寺があった。長英死亡後に花香家に幕府側から長英を匿ったかどうかの調査があった言い伝えがある。

 鉾田市の市史に安塚村の知行に長井五郎右衛門という名前を見つけて、船橋市史近世の本で確認すると長井家の知行地だった。花香恭次郎の研究している人は少なく史料も少ない。多くの幕末研究家も幕府崩壊時の目付長井昌言の出自を不明としている。福神漬の言い伝えからたどっているから幕臣長井昌言は戸田伊豆守氏栄の三男で妻は長井家の人で筒井政憲の斡旋で養子となった。

 鉾田市の安塚に今でも漬物業者があるし、鳥栖村にも漬物業者がある。不思議な縁である。横浜の地で少し暮らした花香恭次郎が今でも寂しい鉾田市の生活に馴染めなかったのは当然だろう。銀座にあった公益問答社に就職したのも長井家・戸田欽堂・高島嘉右衛門のつてだろう。

 

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