年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

中島三郎助文書付書

2018年04月29日 | 福神漬

芳子聞書・覚書より 中島芳子

西浦賀の塩取り扱いについて

庶民生活の必需品として米・塩・油あり。禁制品として自由な売買は許されなかった。米は浦賀で集散・塩・油は浦賀を素通り。江戸が在庫が豊富なら暴落。産地品がすくなければ暴騰する。この均衡をとるため海関にて統制する。下田より浦賀に移転当時東浦賀では干鰯肥料の専売を行い房総一円からの出荷を集め大干鰯倉庫として二町余の大倉庫を建て、肥料配給の全権を握って莫大な利益を、全町が大いに富んでいた。然るに西浦賀はこの恩恵にあずからず、疲弊していたため東西合併を願い訴訟沙汰になったこともあった。塩を西浦賀扱いとなれば全町潤うとして大田又四郎・白井儀兵衛より中島三郎助へ懇請した。三郎助が水戸公の知遇を受けていることで水戸公に願い出て、幕府の許可を受けた。

 白井儀兵衛はこれより西浦賀にて塩専売を扱うようになった。安房・上総・伊豆・相模・鈴鹿より甲州までの塩を集散、問屋十五軒共同扱い、船に水戸御用お台所塩の旗を立て積み出す。扱い高一日二千俵になったという。これにより西浦賀の民生が潤った。これは三郎助の恩義として感謝していた。明治24年、三郎助親子二十三回忌を記して浦賀愛宕山に忠魂碑建設のことがあり、全町民こぞって賛同し、金品労力の寄進を惜しまなかった。

 これが今京急浦賀駅前の残っている浦賀ドックの発祥の前段階の経緯である。

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