浦和の埼玉文書館の公開架のとことに、終戦間際の昭和18年からの埼玉新聞の縮刷版がある。何らかの理由があると思うが白紙の所もあって戦前は検閲、発行禁止もあって不思議ではない。戦後にも白紙の縮刷版があって、当時の埼玉の情勢が途切れて見えていた。戦後の始まりの昭和20年8月16日以降に女性の貞節という言葉がよく出ていた。埼玉新聞では9月の1面の下段の広告に女子事務員募集の広告があった。特殊慰安婦の募集なのに事務員募集という広告が新聞社のやましさを感じる。その広告の上段では日本女性の貞節を説いていた。
昭和20年9月15日に埼玉県では1万人の米兵が進駐してきた。その中の46名が今の東武野田線南桜井駅付近に進駐した。
『ドキュメント 昭和二十年八月十五日―占領下の日本人』安田武、福島鋳郎著
この本を図書館で借り出し、特殊慰安婦R・A・Aの内容の内容を知った。
昭和20年8月22日に米軍の慰安所に決まり、その後の様子が元従業員の証言が書かれている。大森海岸の小町園という。
今は第一京浜国道が京浜急行の鈴ヶ森付近で交差し、大森海岸駅から平和島駅付近まで、国道の東側はマンション群となっているが当時は料亭のような建物があって、その中の一つが小町園のようだった。
小町園の盛況から米軍相手の施設が次々と生まれたがまだ公式の区史等では記述できない部分が多いと感じる。同様にヤミ市というのもあったがこの方は少し文献が集まってきていると感じる。
なぜこんなことが気になるかと言えば叔父の最後の日々を見ていた人からの証言で遺書等を残していたという。それでなぜ叔父のが写真だけが残っていて、後は伝聞しかないしそれも具体的ではない。さらに地域の記憶も消えていて、知覧を訪問した人から尋ねられても何も答えられなかった。何か戦後にあったと思われる。