年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

また埼玉文書館へ カスリ-ン台風の後の東埼玉の農産物供出騒動

2023年02月25日 | 宅老のグチ
春日部市史庄和地区を読んで、そこから昭和22年秋のカスリ-ン台風が埼玉県の利根川堤防を決壊し、下流の田畑を水没させた。その洪水の水は都内の家屋まで水没させました。秋のコメの収穫が激減し、政府とGHQから指示された農産物の供出数量が埼玉県で未達成となり、埼玉県に駐屯している米国陸軍歩兵部隊のライアン中佐が脅しをかけていました。特攻で亡くなった叔父の住んでいた隣の南桜井小学校で隠匿農産物は強制捜索すると未達成地区の住民を集め演説していた。
 このあたりの文献が東京の闇市の時代と少しずれていて、戦後の東京の闇市興亡史から漏れていると感じる。埼玉新聞の記者がリュックを背負って農家を回るが農家には無視されて、古参の買い出し人から情報収集して記事を書いている。東武東上線、西武池袋線は買い出し電車だった。イモ・米・野菜がリュックに積み込まれ東京に運ばれた。農家はインフレで現金をため込むことをせず家の改築・新築の様子が見える。その様なことも昭和25年1950の6月に朝鮮戦争が勃発し、日本に軍時特需が始まり闇市の時期は終わった。
 多くの闇市の文献は読者需要の多い都会の市民向けで、農家を歩き回り農産物を物々交換している話が出て来る。無頼派と言われた坂口安吾の文で農民は権力に柔軟に対応するという。戦前の軍部の下で活躍した末端の行政組織に安い価格で供出を迫ってきても、隠匿した農産物は簡単には出せないだろう。この騒動も朝鮮戦争がはじまり、日本が米軍の兵站基地となり、極端な食料不足が終わった。戦前は漬物の安定需要が軍隊であった。戦後は軍隊需要が消えどうなるかと思われたがヤミ市需要をとらえ生き延びたと思われる。特に家庭で漬けていた漬物が戦中から女性が働くことによって、家で漬物を作る人が減り、商店で購入する人が増えた。今は家庭で漬物を作る人は趣味の人になりつつある。漬物の基本は量が多いほどおいしくなる。その理由は少量だと塩加減の調節が難しいし、重石の加減も難しい。さらに食べる人が少ないので味が最後に変わってしまうこともある。家は小さいし臭いの関係で漬物小屋を設けられない都市ではさらに難しい。韓国では屋上に甕を置いてるキムチを見かけるが気温の関係だろう。
 最終的に東埼玉の人たちは隠匿物資の捜索を恐れ、さらに地域の連帯を破壊する密告制度を恐れ、闇農産物交換で得た現金で供出農産物を確保し間に合わせ、完納宣言が出たようだ。このことは地域ではまだ語りたくない、記録したくない騒動と思われる。非常時だからと言ってあからさまな利己意識が落ち着くと証言記録として残る。従ってまだ75年では証言記録が出てこないと感じる。
食料自給率の少ない今で米以外の食を確保しようとするとイモしかないという。イモネ~ちゃんが流行語にならないように祈る。
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