コロナが収束しつつあって、いろいろネットで情報を収集している。その中で埼玉県庁の後ろに埼玉文書館というののがあって叔父の特攻の基本的文献を探していた。最近までのHP上では、電話連絡し閲覧する文書を通告するようになっていた。さらに時間と人数制限があって、家人の介護と送迎をしていたので当日まで予定が立たず訪問を見送っていた。ようやく前日予約の文言が消えていたので訪問することにした。
JR線で浦和駅に降りると蕨駅前と同様に再開発の工事が進んでいた。あと2年もすれば駅前に100mの高さの巨大なビルが出来て、今残っている店舗が消えると思う。
県庁の後ろまで歩いてゆく途中にあったモスバ-が-が消え、ロッテリアになっていた。埼玉県庁も移転話があるようだが不要不急と見なされているようだ。ただ県庁の建物にはすべてに耐震の工事の跡が見える。文書館へ行くとコロナ以前の風景があったが、仕切りのアクリル板がまだコロナ状況ということになっていた。
昭和25年の発行の埼玉師範学校の名簿を出してもらった。叔父が師範学校を半年繰り上げ卒業したのは昭和18年9月だった。成績表では139名卒業とあるが卒業名簿本科140名となっていて、名簿の空白者28名で、さらに名前の上に黒丸がある人は19名あった。なおそのリストの終わりに遅れて19年3月卒業した6名は全て昭和25年記録があって生きていた。
昭和16年からの記録を眺めていてやはりこの年代の不運さをひしひしと感じる。
生まれた時が悪かった。関東大震災前後の生誕で、今昭和史を見ていると良いという時を過ごした人が少ないと感じる。令和4年の生命表を見ていると18歳から22歳までの死者不明者は少ない。この時期の師範学校生の戦病死が2割近いことを考えると不公平と感じる。ロシアとウクライナの戦争は今月で開戦から2年目に入る。戦前の日本が大戦に参加した時期を思い出す。アメリカ人は数年おきに戦争もどきをして慣れているが日本は惰眠中で慌てているように見える。もう日蓮ののように念仏で敵を粉砕することは出来ない。歴史の虚説で神風を信じ、特攻した叔父は念仏の被害者のように感じる。物の生産力の差から欧州大戦が終わって、日本に攻撃に集中され終わった。もし日本が大戦に参加しなければ今の中国のような立場に立てたという歴史学者はいない。頑迷な旧日本軍部は日清・日露の戦争に勝ちすぎ、傲慢になっていた。
文書館で叔父の遺書等の記録を消したことの解明はやっと手掛かりが得られそうだが、証言を引き出すには個人情報を出さないといけないと感じる。いまは春日部市の歴史資料館の人たちの協力が必要と感じる。もう終戦後78年経って、当時生きていた記憶のある人が90歳を超える。90歳なら半分以上の人が認知症で証言の信ぴょう性のある記録を得るには時間が足りない。
叔父が農産加工の指導者を目指していたと感じる。川辺小学校の長堀宇三郎先生に進路相談し、野田市の野田農工学校に学び、授業料免除の埼玉師範学校には行った。当時の師範学校の兵役免除の仕組みが日中戦争の拡大で兵役免除が消え、師範学校の競争率が減った。卒業後教師になると授業料免除でさらに兵役免除は農家の子弟には魅力だった。