年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

名古屋市昭和区御器所(ごきそ)

2008年03月16日 | 宅老のグチ
名古屋市昭和区御器所(ごきそ)
御器所はみな振り仮名つきの住所表示。愛知県の沢庵漬発祥地ともいえる御器所に行きました。この地で気がついたのは多くの家が道路より一段高く盛った土地の上に家が建っていました。水害の恐れがあるのでしょうか。空き地の土壌は砂交じりが多くこの地で大根栽培が盛んなときはどうでしたのでしょうか。今では2軒の業者があるのみです。
 御器所八幡は必勝の神様らしく入学就職の神様のようです。地下鉄御器所駅と現地かなり離れていて迷いました。明治までは郡道が御器所のそばに通っていて漬物業が盛んになったと言われました。行商の時代です。今では幹線の道と離れて静かな神社の森があります。
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政治的食べ物

2008年03月15日 | 築地市場にて
政治的食べ物
漬物はあまり知られていないが政治に左右される食べ物である。しかしこの事実は漬物業界にもあまり知られていない。従って事件が起こっても結果が時間が経っておきていることもあって忘れされている。
 沢庵漬は日本の食の発達の歴史をしめし、戦国時代から江戸の平和に向う過程をしめす食べ物である。べったら漬は明治維新の混乱と不平等条約改正かてとその影響を受けている。農薬ギョウザも政治問題化しているのでどんな結果をもたらすのだろうか。
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第一次大戦はもう歴史の世界

2008年03月14日 | 福神漬
第一次大戦はもう歴史の世界
フランス大統領は平成20年3月12日、第1次世界大戦(1914-18年)に従軍したフランス兵の最後の生存者が110歳で死去したと発表した。AFPの報道によると生存する第1次世界大戦の退役軍人は、世界で8人を残すという。
忘れ去れた日本の第一次大戦戦没商船常陸丸ははるか昔の話となってしまったのだろうか。
 捕虜の虐待と優遇 野村健二著を読んでいる。常陸丸は日本の捕虜の問題の対応が時代によってゆれていることが解る。ドイツで捕虜となった日本郵船の常陸丸は歴史から消され福神漬の思い出と共に記憶に残ったと思われる。
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日本の実業家

2008年03月13日 | 福神漬
日本の実業家―近代日本を創った経済人伝記目録
日本工業倶楽部編集より

浅田正文の履歴は戦前発行された本を圧縮し、まとめたように思える。明治18年日本郵船発足とともに会計支配人となり、22年理事。会計課長、函館支店長を勤め、26年郵船専務、29年川崎八右衛門(川崎金融財閥)創始者と共に東武鉄道を創立し、相馬半治・小川鋪吉(日本郵船取締役)と森村市左衛門(森村財閥の創設者)共に明治製糖を創立に参画して取締役に就任、他に帝国商業銀行・東京建物に創立や経営に関わった。相馬半治は後に明治製菓株式会社の創業者となる。
 慶応義塾出身等のことは記述されていない。浅田の経歴はどう見ても経営者と見るより会計支配人として見たほうが良いのだろうか。
 浅田正文の経歴調査はここまで今後の調査の進展は偶然の出会いだけか。浅田正文は福神漬と関係がないのだろうか。三遊亭円朝の落語「七福神めぐり」に出てくる財界人になぜ浅田が入っていたのだろうか。
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日銀総裁の艶聞 3

2008年03月12日 | 福神漬
日銀総裁の艶聞 3
明治43年8月23日の都新聞の記事で『川田小一郎の恩人』としてつぎのような記事があります。
 『日本銀行の川田小一郎氏も(富貴楼の)お倉をひいきにしてそこここに遊んでいましたが。川田氏は仲町芸者の吉次に思いをかけ是非妾にしようとしたが、吉次は有名な男嫌いが看板で誰がなんと言っても「男は嫌い」の一点張りでさすがの川田氏の金の力も何の効果なく、業を煮やして言い出した意地と惚れた弱みに富貴楼に来て、男嫌いの吉次を妾にしてくれれば川田はお倉を一生の恩人だとも言い出してひたすら頼んだ。お倉も他の女ならば手のないことだが相手は吉次とあっただけに一寸困ってしばらく考えてよろしいと引き受けた上、吉次を訪ねいやだと言う吉次を無理やり納得させ川田の邸に妾として上げ、二人の子供まで生んだと言う。かくして日銀総裁であった川田はこれを恩としてますます富貴楼をひいきにしたという。』
富貴楼のお倉も上野谷中に縁がある。仲町芸者とは池之端仲町のことだろう。川田は明治29年に死去しているのでいつごろの話だろうか。福神漬は明治19年前後に上野池之端の酒悦によって創生された。福神漬の普及には池之端の人脈の影響と待合茶屋でも出されただろう。郵船に積まれた福神漬の経緯は事実があるがなかろうが郵船社員には幹部の行状が新聞紙上によって報道され池之端といえば三菱・郵船となっていて記憶にのこっていたのではあるまいか。日本郵船歴史博物館の人の話ではカレーライスと福神漬の話は郵船社員には広く知れていた話であるということである。しかし文献はないということである。
 第一次大戦にインド洋で行方不明となった常陸丸の記憶が日本郵船百年史の記事募集で福神漬の話を思い出させたのではないのだろうか。
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日銀総裁の艶聞 2

2008年03月11日 | 福神漬
不忍池は出会い茶屋の始まり
第三代日本銀行総裁の川田小一郎が通ったと思われる池之端仲町は江戸時代からの今風に言えばラブホテル街で上野寛永寺等の寺院参拝の後に利用した待合茶屋でした。その中に香撰を売り物にした茶屋が3軒ありました。しかし明治の上野戦争で寛永寺付近はさびれ、営業努力した『酒悦』だけが生き残り福神漬を創生しました。
 さて川田小一郎の妾の話は明治43年8月23日の都新聞(今の東京新聞の前身)の記事『花柳界の女傑・富貴楼のお倉』の中に記述されています。明治時代の新聞はとにかく報道のルールなどないように思えるくらい行き過ぎた記事が多数ありました。しばしば人のプライバシーなど関係なく報道していました。時には記事の捏造等もあってしばしば訂正記事もあり、発禁されたときもありました。一面で政治外交を論じていて三面では芸者のお披露目や歌舞伎等の話題や遊女の心中記事でのぞき趣味のある読者を増やす努力をしていました。昔も今も新聞の拡販はえげつないことやるようです。
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日銀総裁の艶聞

2008年03月10日 | 福神漬
日銀総裁の艶聞
仲町の芸者を妾にした第三代の日銀総裁川田小一郎の通っていた仲町は何処に当たるのだろうか。検索すると深川仲町となるが江戸時代のことで明治時代は新橋・柳橋が一流で上野池之端仲町は二流となる。今でも明治の時代でも池之端仲町は風俗街であった。池之端であれば川田の福神漬関係の人物の一人となる。
 日本銀行の歴代総裁の中で川田小一郎の評価は非常に高いが福神漬コネクションの中ではどう評価されるのだろうか。
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「食」の基本を忘れた日本人

2008年03月09日 | 宅老のグチ
「食」の基本を忘れた日本人  中村修を読んで
週間エコノミスト 平成20年3月号
栄養学は貧困の時代には必要とされた学問であったが今では食品産業の広告塔となってしまい『○○を食べましょう』となってしまい『食べるな』を研究することでなく『食べる』研究ばかりしていてかえって不健康になっている。食品産業の売り上げ向上をするための研究をしていると指摘されている。
 4月から健康に対する指針が変更され特定健診『健康診査』 ・保健指導』が始まります。ようは消費する以上の栄養を取りすぎているのです。
 明治時代から日本は欧米諸国との体格差を栄養が足りないからと考えていました。明治の30年代人工甘味料のサッカリンが禁止された理由として栄養のないものにお金を出すのはけしからんという議論もありました。徴兵検査も体格が重視されていました。
 しかし栄養学はいまだに貧困の時代の影響を引きずっていると指摘している。食品物価の急上昇が起きている今栄養学は新しい日本食生活を見つけねばならないので研究していると思えない自給率の多い食品で栄養を取らねばならない。米を中心とした昔の食と違う新しい日本食を指導するのが栄養学の役目と思われます。
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東武鉄道百年史より

2008年03月08日 | 福神漬
東武鉄道百年史より
東武鉄道百年史を台東区中央図書館にて借りようとしたら保管室にあって出てくるのにかなり時間が経った。よほどの貴重書と思っていたら新本でした。まだ誰も借りて読んだことがなさそうで紙が離れず苦労しました。
 東武鉄道の創業時に浅田正文が参加していたので社史ではどんな評価をしているのか調べることが目的でした。創立者12人の中で浅田は取締役にもならず、さらに一番出資金も少なくどうして検索すると東武鉄道創立者の上位に出るのでしょうか。
 後に浅田はかなり経ってから東武鉄道の取締役になりますがどんな理由があったのでしょうか。第三代日本銀行総裁の川田小一郎が産業振興のため国家的事業のため株券を担保として資金を融通する金融機関の設立を企画し、横浜正金銀行で手腕を発揮していた原六郎を帝国商業銀行の頭取として迎えるようにしました。また川田は元日本郵船におり、浅田は郵船の経理を担当する部下であった。従って東武鉄道が創業時丸の内三菱ビルの一画の中に事務所を置いた理由は理解できる。
 浅田正文は明治22年4月日本郵船理事、明治26年12月専務取締役、翌明治27年3月取締役に退いた。明治29年6月東武鉄道の創立願いの書類の署名した12名のうち一人。そこには浅田正文の住所として下谷区茅町2-16となっている。
 明治31年7月の萬朝報のスキャンダル報道のとき浅田は帝国商業銀行取締役兼支配人とだった。浅田は郵船の取締役は22年の長きにわたるという。
 どうやら福神漬は上野池之端・横浜の地域を結び船と鉄道を歴史も関係してきた。
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知覧特攻慰霊顕彰会からの手紙

2008年03月07日 | タクワン
知覧特攻慰霊顕彰会からの手紙
中央区の図書館に徴兵忌避の研究の本を返しに行って家へ帰ったら、知覧から手紙が来ていた。昨年5月子供が九州バイク一人旅をしていて必ず知覧だけは行くように命令した。そこには昭和20年5月に九州博多の雁の巣から沖縄に向って特攻していった叔父の写真が知覧特攻平和会館にあることを知っていたから見てくるように頼んだ。会館について写真を探したが写真が多くわからないというので係りの人に名前を言って探してもらった。そうしたら偶然訪問した日が叔父の特攻に出撃した日、つまり命日であった。叔父の飛行隊は米軍の記録によると輸送艦を大破したとのことである。出撃した陸軍特攻隊は7から8機ぐらいであったと聞かされたが一機が整備不良のため引き返し、戦後特攻の出撃した日の話を遺族に話すために来たと言う。その方は戦後日本航空のパイロットとなったと聞いている。
 5月3日の慰霊祭にはいけないがいつか5月20日に知覧に行って南の空を見たいものである。
沢庵漬の色々な歴史は軍隊と関係しているので今後調査が進むにつれて、いずれ自分の中で葛藤するだろう。
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小麦の国際価格の高値

2008年03月06日 | 宅老のグチ
小麦の国際価格の高値
小麦の国際価格の高値は食料を金の力で外国から輸入している日本は高値で購入することになる。小麦を材料とする食物は対応に苦慮することになり、消費者の厳しい目が安易な値上げは需要の縮小を招き値上げ以上に売り上げが減少するだろう。
 農薬ギョウザの余波は中国公安のまずい対応でかなり結論が長引きそうである。あの言い方では日本の店が今後何があっても中国製品を買って事故しても日本の店や港から消費者の間に起きたこととされるだろう。金を出して買った人が悪いとなれば安心して販売できません。日本は今のところ建前上『お客様は神様です』で売ってやるという態度ではいずれ反発し逃げます。殿様商売は漬物の歴史でも競争相手が出てきて落ちぶれます。
でも中国公安の言い分にも一理あります。日本のマスコミの不勉強、特に食品に関して目立ちます。
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財務省からの催促

2008年03月05日 | 趣味としての漬物
財務省からの催促
夕方仕事をしているとナント財務省から電話が来た。3月3日まで提出しなければならない景気動態調査のアンケートをメールで出すのを失敗していたのを催促された。とにかくセキュリティが厳重で中々送信できない。4~5度後に送信成功した。まだまだ農林水産省のアンケートも残っている。なにか政治の手詰まり感があって政策の出口をさがしているようである。こちらは日々忙しく前日予定していた仕事は予定どおり進むことはない。中国の農薬問題は次第に政治問題化してきてどうなる展開になるか、久しぶりのワクワクすることになりそう。
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横山大観記念館

2008年03月04日 | 福神漬
横山大観記念館
日本画家横山大観の住居あとに記念館がある。東京都台東区池之端1-4-24にあるが住居表示が明治のときは下谷区茅町2-19と大観の孫に当たる方に教えていただいた。その方のいわれるにはどなた方の茶室あとを借地し、後に購入したようである。横山大観が、ここに住居を構えたのは、明治42年(1909)のことです。
台東区によると
池之端七軒町の南隣の茅町二丁目21番地には日本画家の大御所、横山大観が住んでいた。今は大観記念館となっている。明治40年頃の大観が友人へ当てた手紙に、「観月橋を西に渡り、通りを右に行った3軒目に暮らしている」と記している。となると大観の親族の方と台東区の地番が異なる。
 池之端御前と言われた福地源一郎氏は茅町2-18に住んでいて2-16には浅田正文が住んでいた。福地氏は後に浅田正文に土地を売っており、横山大観が購入した茶室跡は浅田正文の茶室だったのだろうか。浅田が茶をたしなんだ文献はなかったが福地源一郎は茶をたしなんでいた様である。福神漬の由来を書いた鶯亭金升は福地氏の土地に間借りしていた。今の東天紅は浅田正文邸の跡地のような気がする。
 横山大観の孫に当たる方の話では台東区は戦災で焼失したためも前に誰が住んでいたか解りませんということです。でも福地源一郎は隣ということがわかった。
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旧岩崎邸記念公園

2008年03月03日 | 福神漬
旧岩崎邸記念公園
いまでこそ岩崎邸は湯島天神と少し離れているが三菱の岩崎家が邸宅として使用していたときは湯島天神と地図上では接していたようである。
 湯島天神の正門から御徒町駅に向かって坂を下り歩き始めると道の反対側に旧岩崎庭園の案内板が見える。池之端文化センターとなりにあるが岩崎庭園の案内図では池之端文化センターは敷地内ということになる。その文化センターは解体工事中で時代の変遷を感じる。
 岩崎家は明治11年にこの地を購入していて、浅田正文は三菱の岩崎家がここにあるから池之端に家を求めたのだろう。
 明治29年下谷区茅町に岩崎家本邸の洋館が建った。入場料を払って入ると二階の広間に大正6年8月の茅町本邸実測図があった。当時の広さは一万五千坪の広さがあった。地図上のことだが落語家の三遊亭円朝は岩崎家が購入する以前にこの地で生まれたことになる。円朝は湯島生まれ。
 洋館から和館に向かうと橋本雅邦の絵がある部屋にたどり着く。案内板を読むと三菱は橋本雅邦を支援していたようである。
 池之端に福神漬エピソードの関係者がすべて揃うのは偶然と言うことで終わらせるにはまだ早い。

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湯島天神の梅祭り

2008年03月02日 | 趣味としての漬物
湯島天神の梅祭り
今年の湯島天神の梅祭りは3月8日までだが肝心の梅の咲き方は寒いせいかまだ三分咲きから5分咲きという。境内には受験の祈願の絵馬でいっぱい。湯島の梅は見る梅で梅干には向きそうにもない。大混雑の境内の中で男坂を登りきったところに講談の高座の由来を書いてある石碑があった。江戸時代からの湯島天神・上野寛永寺は庶民の行楽地であった。
 梅干が東京の名産にならなかったのはどんなわけがあったのだろうか。
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