年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

唾玉集から

2008年05月16日 | 福神漬
唾玉集から
明治30年代の芸者さんの話
千歳米坡は東京都中央区の人形町付近にあった芳町の芸者で、明治時代で歌舞伎踏襲の女役者はいたが、新演劇への近代日本の女優第一号、千歳米坡が最初である。
千歳 米坡(ちとせ べいは)
安政2年(1855)10月、東京下谷の桜木町に生まれる。芳町で米八と名乗り芸者に出ていた。33歳の時、女優をする。大正7年(1918)没。
千歳米坡の談話は明治中頃以前の侠客や芸者の事情が江戸時代末期と明治の30年頃と比較して話している。今の辞書にはない用語が数多く出てくる。『座附』『火事師』『お留主居茶屋』『口入屋』『桂庵』『番組人人御用達』
 米坡の話では芸者と客の関係が明治中頃から変ってきていて今の感覚で理解すると状況が把握できないことになる、明治の中頃以前は芸者を直接口説く客が少なく間に立つ人を介して話をつけていたと言う。横浜富貴楼のお倉の存在はそのような役目(仲介人)を果たしていたのだろうか。
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築地市場と地震

2008年05月15日 | 築地市場にて
築地市場と地震
あまり知られていないのですが築地市場が日本橋から移転したことは良く知られていますが大体次のように書かれています。『もともと東京の魚市場は日本橋にありましたが、1923年の関東大震災で倒壊したため芝浦に移転。さらに1935年(昭和10年)、現在の築地に移ってきました。』
 しかし、魚河岸の歴史の本には震災後,すぐに日本橋で営業しようとしたが朝鮮人暴動等の理由で戒厳令が発動され日本橋の魚河岸のところに入ることは軍隊によって阻止されました。これは東京府の意志でもありました。
 もしこの時移転してなければ多分戦後かなりの遅くまで日本橋や京橋に市場が残っていたでしょう。今の築地市場で何回か火事がありましたが現場検証が終わった翌日には営業再開しているので治安維持法発動がなければ築地に移転はなかったと思われます。
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中国大地震と築地市場

2008年05月14日 | 築地市場にて
中国大地震と築地市場
何年か前,東北地方の地震ではるかに離れた埼玉県の老朽化した建物が1軒のみ倒壊したことがありました。築地の市場はかなり古く東京都の中でここだけ倒壊することがありそうです。日本では人が死なないと必要な事業は動かないようです。
首都圏の輸送網が分断されたとき食の備蓄は少ないため水運の重要性がわかるだろう。今の築地にも豊洲にも水運用の施設があります。備蓄用の食品の値上がりが気になります。

一応築地市場の耐震工事はやっているのですが想定外があるので揺れてみないとわからない。
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季節はずれの台風

2008年05月13日 | 築地市場にて
季節はずれの台風
季節はずれの台風の接近で風の強さが気になる。まだ和歌山の梅の実は小さいが梅雨時になるとおおきくなっているので台風等の強風で落下すると木に実る梅の数が減って大きくなりすぎる。今の消費動向としては大きくなりすぎないほうが良い。
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三遊亭円朝の明治 矢野誠一著2

2008年05月12日 | 福神漬
三遊亭円朝の明治 矢野誠一著2
三遊亭円朝と山岡鉄舟との交友は明治10年から明治21年まで11年間師事したことになる。この間、円朝は井上馨・山縣有朋・三島通庸・渋沢栄一・益田孝といった明治政財界の社交の場を利用して『芸人風情』の世界から新時代の文化人として明治新政府の中枢と対等に付き合えるまで大きく引き上げてもらった。また明治政財界人にとっては江戸文化人と付き合う必要が明治東京では必要であった。
 福神漬はそのような時期に上野池之端で創生され広まっていた。
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三遊亭円朝の明治 矢野誠一著

2008年05月11日 | 築地市場にて
三遊亭円朝の明治 矢野誠一著
三遊亭円朝の評伝は明治以前の若き日々の醜聞を触れることは及び腰で明治の落語界で指導者の立場となった円朝の姿を高貴な人格像を描くことで終始していると矢野は書いている。
『思うに三遊亭円朝の生涯は退廃の風潮の支配した(江戸)幕末を背景としたおのが前半生を巧みな軌道修正に費やされたことになる。それは円朝という人格と明治という時代が共に歩んだ二人三脚のようなものだった』
 円朝の落語は速記によって明治の文学界に大きな影響を与えた。
 福神漬は円朝を含め、その関係者が上野池之端周辺でみな明治という時代に関わるということはどのような意味があったのだろうか。
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自伝や社史から

2008年05月10日 | 福神漬
自伝や社史
三遊亭円朝の評伝や自伝等を読んでいると有名になったあとは都合によって書かない部分が出てくることになる。福神漬の歴史を調べるとその書きにくい部分が文献にないために状況証拠をかき集めて推量することとなるため色々なことを捜索するしかない。しかし明治と言う時代は関東大震災や戦災で文献が焼失したとはいえかなり多い。
 会社の歴史もそれぞれ会社から委嘱されて記述するから過去に起こった事件も今の時代では都合の悪いことはさり気なくかまたは意図的に無視して書いていくようになる。今の時代から見ると良い結果が出ているのだが大抵不祥事をおきたことの対策から進歩するのであって、その不祥事を記述されないとどうして改善できたか不思議である。
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ギョウザ事件の犯人が捕まれば終わりか

2008年05月09日 | 築地市場にて
ギョウザ事件の犯人が捕まれば終わりか
今の報道関係者のギョウザ事件の犯人が捕まれば終わりのような言い方だが実際食品を扱う人達は終わりとは思っていない。仮に犯人が捕まって厳罰になってももう二度と同様な事件が起こらないという保障はない。
あらゆる可能性を除去して安心安全を求めコスト上昇を抑えて対策をとらねばならない。ここが難しいのだ。いくら対策に金をかけても良い訳でもない。
 
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平成21年度都予算のため

2008年05月08日 | 築地市場にて
平成21年度都予算のため
来年の話をいうと鬼が笑うとありますがまた東京都の21年度の予算請求のための要望書が回ってきました。雨漏り対策と壁の崩落防止予算を要求するしかないでしょう。信じられないくらい古い建物(昭和10年築のもある)から来るゆがみで中にいる人達は移転は必死と思っているらしく(表向きは移転反対していますが)冷蔵庫等の耐久性のある設備を更新する人は少なく修理で対応しているらしく、修理する人達の話を聞くと補修需要はあるとのこと。本来ならばフロンガスの高騰で新品にしたほうが良いのだが移転後のことを考えると償却できないまま廃棄処分となる可能性がある。
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ミャンマーの大災害

2008年05月07日 | 築地市場にて
時代の変わり目
米の輸出国としては何番目かになるミャンマーの大災害でまた米のピンチとなる。急速な時代の変化は予想していた1バレル120ドルもあっという間に越えて次の節目の150ドルは年内にも越えそうで恐ろしい。すでにトウモロコシは食料や飼料として利用されるよりバイオ燃料の原料と作付けられているらしい。時代の変化が早すぎて予想もつかないことに迷わされる。
 日本の家庭や商店・スーパーには備蓄と言う考えがなく災害がなくても、いや災害ならば一部地域の問題で輸送網の回復で補える。しかし食品高騰は全国的な問題で備蓄できる人は限られている。秋になれば小麦の政府売り渡し価格が改定となりまた上がるだろう。どんな行動をとるのだろうか。米だって状況によっては国際価格と国内価格8倍差があっという間に縮小し、夢にも思わない逆転のときが来るかも知れない。明治の時代は結構日本は米を外国から輸入していた。
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報道関係の勉強不足

2008年05月06日 | 築地市場にて
報道関係の勉強不足
食の問題で報道関係者の勉強不足が目立っていて、いつとばっちりが来るかわからない。ギョウザ事件で国産ニンニクが高騰していて生ニンニクはキムチ用にはもう当分使用できないだろう。予想をしていても現実に値上げの価格を見ると一時のことかさらに価格改定があるのか、値上げを認めるのか他の商材と替えるのか悩む。このようなことになっているのが20年ぶりなのでインフレのときの営業方法を知っている人も少なく、注文が増えて喜んでいたら原料が不足して工場が休む状態になってしまったところもある。
食の問題は安心・安定・安全・安価を考えつつ、製造者は利益を出るように考える。江戸時代食肉禁忌のときイノシシを『山くじら』と言うように言葉を変えて食していた時もあった。食の表示を統一する法律の制定はかなり困難になるだろう。すでに材料表示で『国産および中国産』は是正の指摘を受けている。吉野家の牛丼の生姜の表示は『中国・タイ産』となっていてこれは良いのである。一般常識と異なる表示は是正の指摘を受ける。さらに一般常識はどんどん変化するので一回決まれば永久的に同じと言うことでない。
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米騒動

2008年05月05日 | 築地市場にて
米騒動
大正時代の米騒動は日本のシベリア出兵に伴う物価高が始まりであった。富山での女騒動が日本全国に飛び火し軍隊まで出動して鎮圧する状態になった。このことから食品の物価の安定と供給不安を防ぐため中央卸売市場法の制定が急がされ日本全国に小売市場が作られた。このような経緯があるので築地市場の人たちは場外市場の人たちと違って、日本全国の生産者及び消費者に向かって低価格で安定供給が求められている。時代が変わって市場を通さない流通が盛んになってきたが物不足のときはまだまだ有効な方法である。
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4連休の中で

2008年05月04日 | 築地市場にて
4連休の中で
築地市場は4連休の中で、一応表向きは休みですが得意先が休んでいるわけでもなくそれぞれ仕事に出ています。祭日が増えても休める人と休めない人の格差が広がっています。休日しか休めない人は混雑するところに割高な価格となります。6月は全部の水曜日が市休となります。どうなることやら。
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三遊亭円朝と福神漬

2008年05月03日 | 福神漬
三遊亭円朝と福神漬
まだ具体的な福神漬と円朝を結びつける史料が見つからないが円朝は福神漬の池之端周辺に20歳くらいまで住んでいた。明治という時代の東京は明治20年頃まで江戸時代の風景が残っていて徐々に東京中心から変化していくときだったのです。
 円朝をはじめ江戸のときから東京に住んでいた人は基本的に明治新政府を心情的に嫌っていたが徐々に文明開化の進展と共に変化してゆくときでもあった。
 近代落語の祖といわれる三遊亭円朝は30歳の時に明治維新と遭遇した。池之端周辺には幕末期から戯作者たちが数多く住んでおり、様々な交流があったと思われる。明治新政府の文明開化させるため演劇等の興業は江戸時代の風習を改めるため教育することを要求された。しかし、明治10年の西南戦争まで東京は落ちついいていなく、武士等が消えた東京は消費地として不況であった。政府は不況を打破するためと文明開化を進展させるため様々な手段を講じた。上野公園で明治10年第一回内国産業博覧会(国内の産業を振興することを目的)に開かれた内国博は都合5回開催され、第3回までがこの上野公園で開催されています。
 そんな時代的風景の中で福神漬が生まれたのです。近代工業の爆発的発達と同様に様々な技術の同時進行によって発展したと同じです。
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クララの明治日記

2008年05月02日 | 宅老のグチ
クララの明治日記
幕末から明治にかけて活躍した勝海舟の三男に嫁いだアメリカの女性の日記を読んだ。歌舞伎や明治の初めの演劇の状況を調査していたところアメリカ・グラント将軍の訪日があって、一行が歌舞伎を鑑賞した。この件で『クララの明治日記』というのが存在するのがわかった。明治20年頃までの築地や上野周辺の事情がおぼろげにわかる。
 さらに気になるのはアメリカ女性が当時『妾・芸者』を日本においてどのように見ていたかわかる。
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