年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

千葉県香取市磯山

2009年10月16日 | 福神漬
千葉県香取市磯山
JR鹿島線で佐原駅を過ぎると、利根川を渡る。そこに中に十二橋駅がある。その付近は千葉県香取市磯山付近であるが利根川を渡っても千葉県なのは第一回衆議院選挙で花香恭次郎(3位)を大差で破った大須賀庸之助の政治活動の結果である。彼は千葉県と茨城県との県境変更運動を香取郡の郡長として反対運動していた。花香恭次郎は明治22年の恩赦による釈放ののち第一回衆議院議員選挙に入ったため、地元基盤が弱く大差の三位で敗れたと思われる。
 千葉県香取市磯山は大須賀庸之助の出身地で今では大河利根川の向こう側に千葉県の土地がある由来は地元の人しか知らないだろう。
 千葉県から潮来の茨城県に入って直ぐのところにある漬物屋さんがてっぽう漬を成田山新勝寺参道で最初に本格的に販売し始めた漬物屋さんである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大原幽学記念館にて

2009年10月15日 | 築地市場にて
大原幽学記念館にて
房総千葉県旭市にある大原幽学記念館に行ってきた。千葉県旭市になったのだが少し前まで香取郡だった。花香恭法という人物を調べるため、すぐそばなので郷土資料が揃っているだろう目星をつけて行くことにした。
 大原幽学は幕末の農村経済疲弊期に農民を指導してある程度成果をあげたのだが支配者とその手先との軋轢で裁判沙汰となり、ついに自殺してしまった。幽学が自殺したのが安政5年なので萬歳の花香恭法との交流はなかったのだろうか。
 天保水滸伝の話と大原幽学の話は時代と地域が重なるのだが地理的に間に入る花香恭法との間には何もなかったのだろうか。そんな所にどうして高野長英が行ったのだろうか。
 こんなことを考え出したのは博徒とか侠客というイメージが三河屋幸三郎(上野戦争の遺体処理)、清水の次郎長(山岡鉄舟との交流)新場の小安(労働組合結成式の参加)など活動が今の感覚と合致しない。
 幕末に今の農業協同組合とか生活協同組合のような組織を作り実践した幽学の考えが浸透したか、また幕府によって排除されたかは大原幽学記念館の答えでは「各自で考えろ」とのことでした。
 福神漬の関連で花香恭次郎を調べてゆくうち、大原幽学にぶつかるとは予想もしなかった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

べったら市がやって来て

2009年10月14日 | べったら市
べったら市がやって来て
毎年19・20日は中央区の小伝馬町駅付近の宝田恵比寿神社でべったら市が行われる。昨年は土日となったため、会社員関係の人出が少なかったという。今年は大根の作柄も良いようで心配なし。
 経費節減の路上飲み屋は不景気の中で酔ってもみすぼらしくないでしょう。べったら一本が千円を超える時代となりましたが中央区で開催されている祭りでは大規模なほうです。
雨天が多い言われるべったら市は週間予報では晴れそうだが昨年も一時築地市場に雨が降った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福島事件の錦絵

2009年10月13日 | 福神漬
福島事件の錦絵
明治16年7月19日から福島事件の裁判が高等法院で始まると国事犯6人のことが連日報道された。政府転覆の計画しただけで証拠も拷問自白だけで証拠能力も弱く、裁判は被告に有利な展開であった。ついに錦絵まで出版された。又被告のための義捐金が全国から集まったという。原という元江戸町奉行所の与力は小林清親の版画に自らの文章を添え『天福六家選』と名付けて出版したところ、直ぐに発売禁止の処分が出た。花香の政府転覆の掛詞となっている。彼らの裁判は結局有罪となった。
 明治22年鶯亭金升は小林清親の媒酌で結婚している。又福島事件のときの自由党のライバルだった明治政府支持の立憲帝政党支援者・福地源一郎の敷地内にある借家で新婚生活を始めている。
出典 河野広中 長井純市著
もし福島事件に花香恭次郎が参加していなければ地方の暴動くらいの評価だったかもしれない。政治を皮肉る團團珍聞に投書をしていた少年に(鶯亭金升・15才頃)どんな影響を与えたのだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

花香恭次郎の有名度

2009年10月12日 | 福神漬
花香恭次郎の有名度
鶯亭金升日記には花香恭次郎は有名な人と書いてあった。葬儀の模様から事実であるとわかった。明治23年8月13日 読売新聞より
花香恭次郎の葬儀
コレラ病に罹り、突然亡くなった花香恭次郎の遺骸は予定どうり一昨11日午後2時麻布の河野広中邸より出棺し神式をもって谷中天王寺に葬られた。
 先頭には「動議貫心肝」「忠義真骨髄」と大書してある旗二流および紅白の小旗8本、次に大同新聞社・両国中村楼・在京大同倶楽部員諸氏より寄贈された造花数十基、次に前駆として稲垣示・龍野周一郎・井上三郎・石塚重平・八木原繁祉・山本幸彦の六氏・次に祭官権中教正竹先嘉通氏、次に唐棺。次に祭官権中教佐々木幸見、同戸田忠幸の両氏、次に楽人三名、次に「仁者以存亡不易志」「義者以盛衰不改節」と染め出してある大旗二流、次に銘旗、次に霊柩、その前後に青年自由党弾鋏義会より送られた「慷慨追悼(こうがいついとう)」の文字を記してある大旗六流、次に呉床、次に墓標、次に喪主河野広中氏、次に花香氏の親戚・政友等、車列を乱さず日吉町大同クラブ前を過ぎ、このところに待ち受ける人々その途中から葬列に加わる人少なからず。午後5時谷中天王寺に着き葬儀となる。花香氏の遺言に従い故田母野秀顕氏の墓側に埋葬し、それより植木枝盛、末広重恭、坂崎斌、青年自由党総代後藤周佐等諸氏の弔詞弔詩の朗読があった。葬式は全て終わって帰途にのぼったのは午後7時頃だった。又市中楽隊一組(14名)行列の先にたち処々に悲壮悲嘆の音楽を演奏し、会葬者に悲哀の情を切にならしめた。
 この日の会葬者は四百四十余名にてその主なる人々は大井憲太郎・内藤魯一・植木枝盛・杉田定一・田中賢道・山田武甫・杉浦重剛・鈴木昌司・末松三郎・大江卓・末広重恭・菊池侃二・上田農夫・綾井武夫・及び青年自由党総代・青年自由同盟倶楽部総代弾鋏義会総代等にて後藤・板垣両伯爵にも特に代理をもって弔意を表したという。

鶯亭金升はこの自由民権運動家や政治家連中の中で團團珍聞の主筆でなく花香恭次郎の親族として参列していたと思われる。福島事件の裁判中、福島では子供たちが田母野や花香の演説を真似た遊びが流行っていたという。また高等法院で裁判中、福島事件の若手の被告人の浮世絵が売り出されていたようである。
 今の政治家も亡くなると党本部や国会を遺体を載せた車で訪れているが、明治の20年代も同じことを行っている。車列とは人力車の列と思われる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

干潟町史から2

2009年10月11日 | 福神漬
干潟町史から2
今は千葉県旭市となってしまった干潟町の歴史から
花香恭次郎(自由民権運動家)
安政二年(1855年)江戸本郷駒込、戸田伊豆守氏栄の邸にて出生と伝えられる。父の戸田氏栄はペリー来航時の浦賀奉行を勤め、幕府の要職にあった人だった。(恭次郎出生当時幕府の閑職に左遷されていた。2歳ころ父は大阪で死す。)
 万延元年(1860年)萬歳村の花香恭法に養育をされるようになる。成長するにしたがって恭法の深川の邸に移り住む。この時養子になったと思われる。
慶應2年吉川慎堂につき漢文の素読を学ぶ。同3年村上英俊について仏書を学ぶ。

日本の「仏学始祖」と呼ばれる村上英俊(文化八,1811~明治二十三,1890)明治元年下総佐倉に至り漢儒続徳太郎の門に入る。明治2年東京に帰り開成学校に通学しフランス語を学ぶ。明治4年、箕作秋坪の家塾に入り英語を学ぶ。その後共慣義塾(南部藩の授業料の安い学校)に移る。(明治6年頃兄長井昌言死す)

明治9年四通社に入り問答新聞(京橋区南金六・今の銀座8丁目付近にあった)の編集に従事する。10年5月同社を退社し(西南役に感じることがあって)6月より宮城地方を巡り歩きする。
 友人と謀り福島町に新聞社(福島自由新聞)を創設しその編集に従事した。明治12年新聞記事が讒謗律(言論弾圧の法令)に触れて禁獄50日の処せられた。
 明治13年同社を去り、福島地方を周遊し国事を談ずる。15年福島県会の書記となり、その会議録の報告書を作り四方に配布する。すると時の福島県令三島通庸を侮辱するところありとして重禁固九ヶ月に処せられた。恭次郎は河野広中の頭脳的存在として、福島事件で大きな役割を果たしている。かれの主張は河野広中より急進的であった。
 明治16年自由党福島事件が起こると、その一味として捕らえられ、東京高等法院にて裁判にかけられ、軽禁獄6年の刑を宣告された。明治22年憲法発布による恩赦によって出獄。
明治23年7月第一回衆議院議員選挙千葉3区(千葉県香取郡)に自由党の候補として立候補するが3位となり落選する。同年8月コレラに罹り7日に死す。同時大同倶楽部員、河野広中が施主となり谷中墓地に葬られた。享年35歳であった。

花香恭次郎の経歴からペリー来航の日本の危機を救った父戸田伊豆守の意思が伝わったような気がする。大正12年7月関東大震災の2ヶ月前、三菱のビル内で開催された缶詰協会の福神漬品評会の会合で鶯亭金升が福神漬の思い出を話したのも何かの導きがあったのだろうか。
 三菱・日本郵船とカレーライスに福神漬はどの様な記憶があったのだろうか?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

干潟町史から

2009年10月10日 | 福神漬
干潟町史から
今は千葉県旭市となってしまった干潟町の歴史から
花香安精 1782~1842)房総における和算家
花香恭法 安精の次男として生まれるが兄の死により家を継ぐ。はじめの名を弘一郎。
家は代々名主であった。江戸に出て藤森弘庵に漢学を学び千葉弥九朗に剣を学び幕府の士となり御徒目付けとなる。高野長英と相知り、一時かくまう。明治維新後裁判所に勤めたり官員にもなる。明治13年銚子町に第百四十四銀行を創立し、頭取となる。明治31年死去。68歳
花香伝右衛門
佐原市津宮で嘉永6年1月15日生まれ。萬歳の花香恭法の養子となり伝右衛門を襲名する。伝右衛門は花香安精の通称であった。明治5年萬歳村の戸長となる。明治29年千葉県議会議員に当選する。昭和13年死去。享年86歳。

 花香恭次郎が恭法の養子となった時、既に恭法の養子に伝右衛門がなっていた。この間の事情はわからないが長井筑前守昌言の援助があったのだろう。河野広中の谷中の碑文から読み取れる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

谷中の墓誌から

2009年10月09日 | 福神漬
谷中の墓誌から
鶯亭金升の日記から花香恭次郎が行った養子先が花香功一郎茶法となっていたのでネットで検索しても誰だかわからなかった。しかし谷中墓地にある恭次郎の墓誌から恭法の誤りとわかった。
 花香恭法を検索するとようやくヒットした。高野長英が小伝馬町の牢獄火災で釈放されてから、元に戻らず脱獄した形となり逃亡した。その逃亡先の中に千葉県香取郡干潟町の 花香恭法の家に一時隠れたという。恭法の父は花香安精という和算の先生で今の大原幽学記念館に神社に奉納したの一門の和算の額がある。香取佐原は数学測量の学問の進んでいた地域なのだろうか。日本地図作った伊能忠敬も付近の人である。伊能の地図を国外に持ち出そうとしたシーボルト事件に長英が関係していた(運よく逃れた)。

長英は下総の香取に内田弥太郎の門人花香恭法(ハナカキョウホウ)を訪ね、一時身を潜めている。嘉永3年(1850)3月、恭法の留守中に置き手紙を残し、マーリンの蘭仏辞典上下2冊とホンブランドの三兵戦術書蘭訳写本を質に5両を借りてこの地を後にした。
高野長英が異国との関係を「『戊戌夢物語』を著し、暗に幕府を批判した。この夢物語は英国船モリソン号の対応批判(外国船打払令)であった。モリソン号事件のあと浦賀奉行となったのがペリー来航時の戸田伊豆守氏栄(うじよし)だった。氏栄は花香恭次郎の父であり、鶯亭金升は氏栄3男昌言の子である。ペリー来航が嘉永5年6月5日なのであと少し逃亡していたら、長英の人生はどうなったのだろう。


福神漬の販路拡大の歴史にはその根本に色々な人生がある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鶯亭金升日記から

2009年10月08日 | 福神漬
鶯亭金升日記 
明治22年8月8日
午前花香恭次郎死去されたと報があった。コレラに罹った。驚愕した。花香は幕府旗本戸田伊豆守氏栄の末男 (昌言父は3男・恭次郎は5男)花香功一郎茶法(恭法の誤り)の嗣子(あととり)となる。安政3年(1956)6月8日江戸に生まれる。(ぺルリ浦賀来航1853)
幼き頃より大志があった。政党に入って社会に奔走する。かつて福島事件につき世の評判高く、その名を知らざるものなし。ふと病に罹って8月7日午後5時卒す。享年35歳・嗚呼悲しいかな。余にはただ一人の叔父なり。

花香恭次郎の葬儀に福島事件関係者・植木枝盛・自由民権主義者等が参列していたので團團珍聞の鶯亭と知り合ったと思われる。また花香恭次郎の生き方にかなり影響を受け、鶯亭金升がこの死から政治の世界から離れていった気がする。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

築地市場 ととの日まつり

2009年10月07日 | 築地市場にて
ととの日まつり
体育の日の祝日が移動して10月10日(土)はとと(魚)の日として築地市場にて食育イベントが行われる。規模が小さいのと休市の日でないので今一宣伝が行き渡っているとは思えない。
 主なイベントは午前中が一般消費者に販売しても良い魚がし横丁物品販売店舗、午後が東京都講堂や勝鬨橋付近の厚生会館にて食育講演会等が行われる。他の市場と比べると地味なイベントであまり混雑するとは思えない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

花香恭次郎墓碑から

2009年10月06日 | 福神漬
花香恭次郎墓碑から
河野広躰の書
 彼(鉄丸)が江戸深川で生まれて2年ほどで父は亡くなった。落ちぶれ孤独に苦しんでいたので年の離れた兄に相談した。すぐ上の兄は永井家に養子に行っていた。戸田伊豆守氏栄3男は長井昌言という名になっていた。兄は鉄丸を憐れみ、書物を読むように指導した、その後縁あって幕臣花香恭法の養子となり、花香恭次郎となった。ちょうど戊辰戦争の時今の千葉県香取郡にいた。いろいろな彼の経歴で出身が香取というのはこのような理由かも知れない。また明治23年7月に行われた第一回衆議院議員選挙において千葉3区で立候補し落選したのもこの地縁と思われる。
花香恭次郎が12歳のころ明治維新となった。東京に戻り洋書を学び、政治を志したという。
花香恭法は高野長英の逃亡を助け、千葉県香取郡干潟町萬歳(まんざい現千葉県旭市萬歳)に匿ったことで知られている。恭次郎は蘭学人脈で養子に行ったようである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

花香恭次郎の死

2009年10月05日 | 福神漬
明治23年8月9日読売新聞
花香恭次郎氏死す
一昨日以来コレラ病に罹りし大同倶楽部員花香恭次郎氏は一昨7日突然亡くなった。同氏は永く民間の有志と交わり人望があった。ことに大同倶楽部創立以来、終始一日のごとく大いに尽力していた。
 以って昨日の常議員会にて井上角次郎氏が起って、同氏のため氏が今まで尽力した功績と追悼の意を述べようということに一同これを賛成し、同会の名義にて同氏の遺骸に弔詞を送ることに決めた。また同氏の遺骸は河野広中氏宅(麻布区材木町48番地)より出棺し、谷中天王寺墓地にある同氏の故友田母野秀顕氏の墓の隣に葬ることとなった。ただし出棺の日時は決まっていないという。

 花香の死去後、政治団体大同倶楽部はまもなく解散した。墓誌は河野広中の書である。花香は鶯亭金升にどの様な影響を与えていたのだろうか。戊辰戦争、上野戦争、自由民権運動、そして日露戦争へ福神漬の捜索が続く。そして三菱・日本郵船との関係がどこでつながりカレーライスに福神漬が付きものになったのだろうか。

大同団結という言葉は明治の大同倶楽部から始まったという。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雨のち霧

2009年10月04日 | 築地市場にて
雨のち霧
長い騒動もようやく一段落して落ち着くだろう。突然現れたオリンピック招致運動で築地移転の会議の開催のスピードが上がったがこれで元の巡航速度になる。この2~3年で社会の状況が目まぐるしく変化し再度見直してもよい状況となっている。特に水産物の価格の下落は多少の手直しでは済まない気がする。ある程度再編しなければならないが規模の小さい業者の方が経営内容が良いので難しいだろう。セリとういう平等な取引が大規模な仕入れでも価格差が少ない。また量をさばく得意先は支払いが遅く資金が必要となりコスト高になる。量販対応の業者の破たんが漬物業界に続いたがすでに力関係が市場の方が弱い。モノ余りの時は消費者に近い方が有利である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

市場の休市カレンダー

2009年10月03日 | 築地市場にて
市場の休市カレンダー
築地市場内の業者に来年の休市情報を聞いた。この会社は独自で築地市場の休みの日を設定したカレンダーを得意先に配布している。例年ならとっくに原稿を印刷会社に手配している季節なのが東京都の市場業務課に問い合わせた結果はまだ上司の決裁が下りていないという。今の見込みだと10月中旬から下旬にかかるという。こんな日程だと来年の業界の年始の会合の予約が入れにくい。最近酒の入る会合は次の日に休むように設定しているので予約が入れにくい。あまり遅れるとカレンダー配布中止ということになって少ない需要をまた減らすこととなる。
 結構築地市場の休みは関係のある職場は影響がある。水曜休みに病院に行くと市場の人がいてびっくりすることがある。地方の出荷者は休市前が休みとなる。従って火曜日に影響がある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

花香恭次郎と鶯亭金升

2009年10月02日 | 築地市場にて
花香恭次郎と鶯亭金升
花香はペリー来航時、幕府を代表してアメリカ大統領の親書を浦賀で受け取った戸田伊豆守氏栄の5男として生まれた。また鶯亭金升は同じく戸田の3男の子である。この二人がどのような関係で福神漬の歴史に係るのだろうか。
 
谷中の墓地にある花香恭次郎の墓はコレラの病床で遺言されたらしく福島事件で囚われ獄死した田母野秀顕の墓の隣に建っている。この二つの墓は傾いていて墓の中で話し合っているように見える。花香の墓誌は後に衆議院議長となった福島事件の河野広中の碑文である。なぜ東京で生まれた花香がどんないきさつで福島に行ったのだろうか。自由民権運動と團團珍聞で活躍した鶯亭金升はどんな影響があったのだろうか。明治23年花香は35歳で鶯亭金升は23歳である。
 台東区中央図書館郷土資料室にある谷根千工房著の(谷中墓地掃苔録 - 森の中に眠る人々)の中の花香恭次郎の絵は自由民権運動の弁士らしく気になる絵である。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする