年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

茅場町薬師を探す

2013年02月13日 | 築地市場にて
先日築地市場の業務終了後、茅場町薬師を探しにいった。ここは明治の初めのころは境内も広く、宮松亭という落語を公演するところがあった。東京証券取引所付近に車を止め、探す。日枝神社があった。一回りして神社の中に入る。後で茅場町薬師を調べると,日枝神社と違う場所ということが解った。ビルの谷間の日枝神社よりさらに小さいようだ。次回また探すことになる。休日の兜町とか茅場町は歩く人も少なく、尋ねる相手もいない。もう一度京橋図書館で南茅場町の変遷を調べる必要がある。

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万歳村と南茅場町との関係は

2013年02月12日 | 福神漬
江戸時代干潟八万石といわれた千葉干潟の万歳村は2838石4斗5升1合あり寄場村で改革組合村の中心でした。大惣代の役を引き受けていました。万歳の二人の大惣代のうち一人は花香家でした。花香家の収入は218石でした。(干潟町史)万歳村は安中藩と旗本?との相給の村でした。
 明治になって花香恭法が銚子の百四十二銀行を設立します。(干潟町史は百四十四銀行となっている)花香家の明治の本業は醤油醸造業と関係があったのだろうか。江戸南茅場町は町奉行与力の住まいでもあったが新川付近にあった酒問屋とも近かった。今でも茅場町には多くの証券会社と共に食品関係の会社が多い。
銀行協会の資料によると百四十二銀行(明治12年から14年)まであったが三十二国立銀行に吸収されたようだ。最終的には今の三井住友銀行となるのだが、銚子付近には三井住友銀行の支店はない。
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築地市場開場78周年

2013年02月11日 | 築地市場にて

2月11日は昭和10年2月11日築地市場が開場してから78年目に当たる。水産部荷受の建物はこの当時からの建物があるという。あと3年後の建国記念日が一番想定される移転日となるだろう。年度末の3月は忙しすぎるし、12月末まで築地市場で営業し、新年休市明けの移転もある。其の前年移転となれば休市カレンダーの来年9月の発表に入れないといけないので難しい。結局3年後の1月2月の移転しかない。他の月は冷蔵庫等の移転に伴い故障したときの対処が難しい。冷蔵庫業者の暇な月が移転時期としてはもっとも好ましい。
 前回の移転と違ってコンピューターというものがあるので,新年明けの移転がベストということとなる。
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水滸伝

2013年02月10日 | 築地市場にて

千葉東総地域の浪曲「天保水滸伝」を調べているのに、中国の水滸伝の話を読んでいないことに気が付く。間に合わせにジュニア版水滸伝を読む。面白い。なぜ浪曲が天保水滸伝となったのかはやっと理解した。
 飯岡町史の別巻で笹沢佐保氏が笹川繁蔵は善玉で飯岡助五郎が悪役となった理由が書いてあった。善玉は悪玉より若いことが1番目、善玉は悲惨な死にかたをし、悪役は自然死となる。
 
飯岡の市民は今でもこの浪曲のために悪役となっているようだ。繁蔵は醤油醸造業が背景となり、助五郎は干鰯(魚肥)で西浦賀と結びついている。東総の話と福神漬の逸話と関係があるのだろうか。
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甘雨公

2013年02月09日 | 福神漬

上州安中藩は周りが海のない藩で海防とかの発想が乏しいと思われるが幕末に出た藩主板倉勝明(甘雨公)は病弱で学問を好んでいた。昌平坂学問所の林檉宇(はやし-ていう】、古賀侗庵( こが-どうあん)に学んでいたという。

安中市史によると明和4年藩主の老中就任に伴い加増され、安中藩は3万石となった。下総国23か村。(安中市史5)その内千葉の知行地が1万5千石で安中藩の借財返済に充てていたという。安中藩士 星野閏四郎は天保年間には高島流砲術家下曽根金三郎へ入門している。星野は弘化2年には川口で大砲3挺作らせた。ぺりーの浦賀来航から8年も前の話である。

 北方の危機をいち早く昌平坂学問所の人脈から知っていて、蘭学から砲術まで甘雨公は藩士に学ばせていたようだ。
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コンセント緊急点検

2013年02月08日 | 築地市場にて

築地市場場長より緊急回覧が回ってきた。どうやら報道されていないのでわからなかったのだが何処かで電気器具の焼損事故が多発しているようだ。冷蔵庫等のコンセントを差し続けている器具から事故が起きているようだ。
緊急に社内を点検するが綿ホコリで汚れているところを掃除する。築地市場の火事は秋から冬にかけて多く、ここ1年は新聞報道されてはいないようだ。
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寒い日は浪曲でも

2013年02月07日 | 宅老のグチ

玉川勝太郎『天保水滸伝』の入っている浪曲さわり集を図書館から借りる。検索するとカセットのほうが多い。家にカセットで聞くことが出来ないことに気づき、CDの浪曲にはさわり集しかない。今の時勢では浪曲など聴く人は少ないので隠し芸需要を狙っているのだろうか。
 天保水滸伝は知っていても実際通しで聞いたこともなければ見たこともない。娯楽の少ない時代は良かったかもしれないが今では一部の演目しか聞くことはできない。MDも製造中止となり、どこに過去の文化資産を保存するのdろうか。
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2回目の休市日の雪

2013年02月06日 | 築地市場にて

前回首都圏の交通網を混乱させた雪が降ったのは休市日だった。今日も市場休で場内は静か。騒いだ雪もチラホラで影響はない。
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千葉旭市太田陣屋から

2013年02月05日 | 福神漬

 旭市にあった安中藩太田陣屋は東総地域の関東取締出役の中心となっていました。万歳村は安中藩領で名主だった花香家は治安情報の入手が早いと想像できます。関流和算家内田弥太郎の紹介で千葉万歳に来た高野長英がすぐに去ったのは大原幽学への捜査から長くいることが出来ないと知ったからと想像できます。
 高野長英が江戸町奉行所役人に惨殺されたのが嘉永3年10月末のことですぐに高野の逃亡を助けた疑いで内田弥太郎に目が行きました。内田は何とか切り抜けましたがこの影には当時浦賀奉行だった戸田氏栄の力があったと思われます。戸田は下曽根金三郎、内田弥太郎の力を借りて、嘉永2年から浦賀の防衛力を強化していた時期でした。
 内田が戸田氏栄にたいして恩義を感じ、氏栄5男の鉄丸を養子先として花香家を世話したと思われます。
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長井昌言は飯岡の領主だった。

2013年02月04日 | 福神漬
ようやく動きやすい気温となって図書館へ向かう。船橋市史近世編を読む。
平成10年3月 船橋市史 近世編 69頁
長井昌言は文久元年(1861年)小姓組番から使番となり、翌二年7月目付となったが同3年4月辞任、同3年6月寄合、神奈川奉行に就任し、同3年8月先手弓頭となった。同3年9月には騎兵頭へ昇進し、従五位下筑前守に叙任した。翌元治元年(1864年)堺町奉行となり、慶応元年11月京都町奉行へ移り、同12月辞任し寄合となる。同3年7月再び目付に就任し、同慶応4年(1868年明治と改元)正月幕府が倒壊し勤使並寄合となる。
(柳営補任)
屋敷は麹町裏二番町にあった。幕末期長井氏の知行地は12箇所会って1652石だった。飯岡町の知行地の石高は127石で二給だった。船橋市史の編纂者は長井昌言は実子か養子か不明であると記述していた。
 飯岡町史(昭和56年3月)945頁にも長井氏の知行のことは書いてあったが永井とあった。これは永井という飯岡の地名に引きずられたかもしれない。飯岡町(268石)の与力給地と永井氏(長井)の割合は6対4であったという。永井氏(長井)は寛永19年より飯岡が知行地だった。

長井昌言は鶯亭金升の父で、ぺりー来航時、米国国書を浦賀で受け取った戸田伊豆守氏栄の3男である。
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二度目の停電となれば

2013年02月03日 | 築地市場にて
築地市場の今年2回目の停電となれば、前回と違って段取りも慣れていて、不安は少ない。しかし何があるかわからないのが築地の悲しさ。
 停電の暇つぶしの本として山口瞳著『血族』を読むこととする。この本は天保水滸伝の関連の本としてたどり着いた本だった。悪役となってしまった飯沼助五郎と知り合いだった先祖を持つ著者山口瞳が助五郎の真実を書こうとした未完の小説だった。横須賀と東総地域との関係は何があったのだろうか。
 弘化4年から嘉永6年にかけて浦賀奉行が戸田氏栄だった。この頃の飯沼助五郎、大原幽学、花香恭法との関係はどうだったのだろうか。特に嘉永2年頃の東総地域では何があったのだろうか。福神漬の命名に関する事項の調査から思わぬ展開となる。
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ウナギの絶滅危惧種入りで

2013年02月02日 | 築地市場にて

和食の問題で漬物が影響を受けないことはない。日本で取れるウナギが絶滅危惧ということで制限を受けることになるようだ。一時は秋田のハタハタ漁のように中断ということもあるかもしれない。ご馳走食から種の絶滅加担食へイメージが変わるかもしれない。
 奈良漬は土用の丑の日の食材として一年の中で唯一宣伝できるのだがどうなるのだろうか。
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椿海の干拓

2013年02月01日 | 福神漬

江戸時代の始めのころ、千葉の東総地方に椿海という比較的大きな湖がありました。コメの増産のため干拓が計画されましたが水害被害を懸念する農民で反対が起こり何度か失敗となりました。しかし1670年鉄牛和尚などの尽力で椿海の水を排水する新川が完成しました。しかしその排水が洪水を招き大きな被害を下流農村に与えました。元干潟町万歳村は干潟八万石の中にあり、椿海からできた村です。
 村のできた経緯から、今は旭市となっていますが万歳の人たちはどちらかと言えば香取の方に気持ちは動いているのではないのでしょうか。椿海の下流の農村は干拓によって、水害干害の影響が大きくなり、結局解決したのは利根川の塩害を防止する堰(1971年)ができるまでかかりました。天保水滸伝の勢力富五郎は万歳村の出身です。明治維新後、万歳の花香恭法は銚子の銀行家となっています。この辺の心情は現地の人に聞かないと解らない部分です。
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