長英逃亡 下巻
嘉永3年10月末、青山百人町で高野長英は南町奉行所配下の者によって、撲殺された。長英を匿った人たちの処分が嘉永3年12月21日に町奉行遠山金四郎によって行われた。
長英逃亡の小説の中で 『おゆら騒動』が取り上げられていた。この薩摩藩へ筒井政憲が阿部伊勢守の意向を受けて動いていて、嘉永3年12月初めには薩摩藩主交代を勝ち取った。
つまり幕府にとっては長英の逃亡を匿った内田弥太郎を処分するには実に都合の悪い時期でもあった。嘉永2年より下曽根金三郎の下で内田弥太郎は浦賀で働いていていた。下曽根は筒井政憲の次男であった。筒井、下曽根、内田は鳥居 耀蔵(とりい ようぞう)が画策した冤罪の被害者でもあった。
維新史料綱要 嘉永2年6月5日幕府、小姓組下曽根信敦(金三郎)を浦賀に遣し、砲術教授及警備勤務を命ず。尋で、門人内田弥太郎「浦賀奉行手付」を信敦に付属せしむ。
嘉永3年も下曽根、内田弥太郎は浦賀で夏季は(史料はまだ見つからないが)働いていたように思える。弘化末年から嘉永年間の浦賀奉行が戸田伊豆守氏英でここでようやく花香家と戸田家が関係を持つ可能性が出てきた。留守居だった筒井政憲は老中阿部伊勢守に重用されていたようでこの次期浦賀にしばしば出張していたようで戸田とも面識があったと思われる。後に戸田氏英3男昌言を長井家に養子の斡旋をしたのが筒井だった。ここで火付盗賊改だった長井家、南町奉行を20年ほど勤め上げた筒井政憲、さらに土浦の関東取締出役で活躍した内田佐左衛門が関係しているようだ。蔵書家であった内田佐左衛門がどのような理由か不明だが万歳村花香家と関係があり、内田弥太郎(五観)の著書を持っていた。天保水滸伝の最後の万歳村勢力富五郎を自決させた人物でさらに大原幽学を改心楼乱入事件で悪役となっている内田佐左衛門の別の姿が見えてくる。組合村の寄場村となっていた万歳村の二人代表の内、花香家は当主が当時30歳ほどだったので史書や講談には名前が出ず、今の歴史家には知られていないようだ。
福神漬の命名の裏付けを探っていくと幕末東関東での治安維持の人間関係が見えてくる。